白い本ばかり購入する日々である/笑。
きのうAmazonから吉田裕『持たざる者たちの文学史:帝国と群衆の近代』月曜社が届いた MARUZENには入荷しないので止むを得ず密林に注文。。月曜社小林さんが「ウラゲツ」に こう書いていた《 弊社は初版1000部以下の本がざらにあるから。。》どう考えても本書は 小部数出版だから躊躇せず購入。。
最近は古本用語ではない「白い本」ばかり買っている 宇佐美達朗『シモンドン哲学研究』法政大学出版局刊 まだ30代前半で未知の著者だったが 法大出版とは思えない(失礼/笑)装幀の簡素な上品さから内容を類推して購入を決意した 一緒にカトリーヌマラブー『真ん中の部屋/ヘーゲルから脳科学まで』(これも月曜社刊) あるいは『Less and More: The Design Ethos of Dieter Rams 』箱こそシックな灰緑色だが 中身は重く分厚く白い本だ 2020年第三版が出たディターラムス『レス&モア』眺めながら ブラウン社の往時製品に代表されるバウハウスの理念を踏襲したシンプルで有機的な造形etc. 世界がまだ比較的マシだったと回顧したくなる50,60年代の工業生産物に想いを馳せた。。
高度で簡素な本が俗衆に好まれるワケがないから安心して手にできる/笑。赤裸に云えば 子どもの頃から大衆の猥雑な趣味と衆愚に迎合した俗悪商業主義が大のつくほど嫌いなのだ もう何処から見ても本物の爺サンだから遠慮なく真実を云っておきます/笑。 「ぼくは大衆蔑視を隠さない」 それは自文化中心主義/ethnocentrismや人類中心主義を 軽蔑的に攻撃し批判するのと同じ重要な行為であるからだ。。
マルクス主義者も新自由主義を推進する末期資本主義の同調者たちも大衆をしかも大量に必要としてるので 決して「鴨=顧客」批判などしない。。/笑。
というわけで宿命的にマルクス主義者は大衆批判ができない ところで誤解なきよう云っておくと ここで俎上にあげられた「大衆」とは一般的に連想するような貧乏人 生活困窮者を必ずしも指してはいない むしろ敗戦後まもなくからゴルフをしたりピアノを習ったり 今ならローンでBMWに乗ったりタワマンに住みたがる人種こそ 救い難い「真の大衆」である/笑。
タワーマンションという地に足のつかない愚昧な新型大衆(自分では半分くらい成功したと思っているらしい/笑。)が蝟集する代物は進化した「巨大なごきぶりホイホイ」である
購入する本は 内容が高次であることは勿論「美しくなければ買わない」が規矩鉄則になってすでに久しい S.ヴェイユ「醜い文章を書く人間を信じない」の実践的ヴァリエーションのひとつだろうか
『シモンドン哲学研究/関係の実在論の射程』を読み始めているが 奇縁を感じ嬉しかったのは
《 第三章では、おそらくドゥールズが一九六六年の書評でその重要性を強調して以来、シモンドンの固体化論を特徴づける存在論的概念として知られている前個体的なもの(あるいは前個体的存在ないし実在)について、モーリス・メルロ・ポンティが一九五九年度のコレージュ・ド・フランス講義のための準備ノートで当時未刊行だったシモンドンの主論文を参照しつつ提起した問いを基点に、固体化を可能にするポテンシャルとして導入されるこの概念の相対性と二重性を指摘する。》
読み始めたばかりの序論にそう書かれていた。。背中側の最厳選された棚には件のポンティ 『自然:コレージュ・ド・フランス講義ノート』が『講義草稿』とともに並んでいるからだ 直感的に購入し本を読む神秘的な愉しさのひとつにこういう超自然「現象」が含まれる/笑。
超自然的な息吹 ふかい神秘が発生しない読書など読書の名に値しない。。
先日丸善でたまたま購入した西平直『東洋哲学序説:井筒俊彦と二重の見』未来哲学研究所 示唆に富む著作で「二重の見」よく理会できた ぼくの云う「ぼんやりクッキリ」のことだ 。。
機会をみて井筒俊彦英文著作翻訳コレクション『スーフィズムと老荘思想』上下
次回はさらに愉しみながらあらためて三読したいと願っている。。
それにしても この世は不思議だなぁ/笑。