人生は「ひと箱の燐寸」に過ぎない 。 ( 「阿Q」に脱構築される「デリダ」 )
持つのも重たい 煉瓦ならぬ「赤いブロック」
ブノワ・ペータース 著 原宏之 大森晋輔 訳『デリダ伝』読みおえ
なんだか人生が軽くなった /笑。 腑に落ちたと云ってもいい
分厚い本を読みおえる 達成による安堵 という意味ぢゃなく
ジャック・デリダという
優等生的で生真面目な印象のある哲学者/思想家の人生を紙上で「瞥見」して
ある種 複雑かつ直截な微苦笑を誘われたからだ 。。。
ぼくは何故か 自伝 評伝 それに準ずるもへの嗜癖傾向があって
邦人を含まずに百人程度は読んだとおもう
キース・リチャーズ自伝『ライフ』 パティ・スミス自伝『ジャスト・キッズ』
『パースの生涯』『ゴダール伝』『完本 ジャコッメティ手帖 Ⅰ.Ⅱ.』
フランシス・ベイコン・インタヴュー『肉への慈悲』 『ベケット伝』
『ジェイムズ・ジョイス伝 1.2.』 『ジュネ伝 上下』 P.ゲイ『フロイト1 .2.』
『キース・ジャレット --- 人と音楽』 『グレン・グールドの生涯』 『ミケランジェリ ある天才との綱渡り』
『カラシニコフ自伝世界一有名な銃を創った男』 『ザ・スピリット・オブ・ランボルギーニ』
『映画大臣 ゲッベルスとナチ時代の映画』『建築家ムッソリーニ』 『シャルロット・ペリアン自伝』
マルガレーテ・ブーバー=ノイマン自伝『スターリンとヒットラーの軛のもとで ― 二つの全体主義 』
これらと並ぶ
上位二〇冊に入れてもいい よく調べて怜悧に書かれた秀作伝記だ
(最高傑作はいまのところ古典『チェッリーニ自伝 フィレンツェ彫金師一代記』)
さて
子どもの頃から敬愛してやまない わが澄江堂 我鬼窟『侏儒の言葉』によれば
《 人生は一箱のマッチに似ている。重大に扱うのは莫迦莫迦しい。重大に扱わなければ危険である。》
なのである
ところで
彼に紹介されたアンブローズ・ビアスの『悪魔の辞典』とともに
少年期の精神形成にきわめて大きな影響があった
反実仮想になるが
龍之介 ビアス オスカー・ワイルドとの邂逅による
アフォリズム嗜好あるいは偏愛 犬儒的冷笑性/シニスム 身についたペシミズムへの耽溺がなければ
ぼくの人生は 違ったものになっていたと思う
デリダに戻ろう
ジャッキーは 健全な上昇志向をほぼ疑うことなく生きた
その平明さは 目白三平や江分利満の生き方を重ねることも可能なほどに
小市民的だ
思想家 哲学者としての実績がどのようなものであろうと 彼は健康でいわば単純な人物だった
世俗 出世あるいは人間関係に悩み 家族思いのくせに 隠れドンファンで
忙しく 書き 移動し 講演し 飛び廻り 立ち回る
目白三平や江分利満より むしろ「革命」好きの阿Qに似ている
全人格の81%が上昇志向のつよい世俗的小市民で 19%だけは形而上的な
いわばデリダは 優秀で精力的な 社交的企業人にもなれる「成功した」阿Qだった
この大部な翻訳書の最大の功績は 現代フランス思想とアカデミズムへの「幻想」が払拭される点にある
フィリップ・ソレルス ジュリア・クリスティヴァ『テル・ケル』派との愛憎に充ちた聚散離合
シルヴィアヌ・アガサンスキーの産んだ非嫡出子(二年後に妻マルグリットの忠告により認知はした)
妻を絞殺するルイ・アルチュセールとその発狂 ジル・ドゥールズ など何人もの自殺者
まさに箍の外れた小市民以外の何者でもない「思想家」「哲学者」たち
哲学も現代思想も ホントは終わっているのでは ないか
( C.S.パースやベンヤミン S.ヴェイユあたり 二〇世紀前半で )
理由は簡潔にして明瞭だ 現代思想も哲学も「神」を扱えないから
形骸として残っているのは 哲学史あるいは「哲学学」教師と「思想史」を教える教師だけだ 。。。
クラシック演奏家は一流になればなるほど
世界中を忙しく飛び回るので 結局 超一流の演奏家はホテルと料理とワインのことしか知らない 。 と
いまやアカデミズムも フランスに限らず
無教養な学者たち 大学教師たちが 教育産業と大企業財閥 etc.を背景にして踊る俗な舞踏会と晩餐会
ノーベル賞界隈も含め 高尚を気取った低俗かつ打算的な社交界に過ぎない 。。。
ネット上の言説では
チョムスキーがデリダを「単純なアイデアをむやみな修辞で記述している」と評し
ジジェクを「あんなのは たんなるはったりだよ」そう酷評したのも
無理からぬ かも
いわば いまは
「虚栄心のつよい燐寸(たち)の時代」なのだ / 笑。