勿論これは一種の洒落である。
最近になって〈「思索の人」の全貌を開示する,新編集による半世紀ぶりの新版全集〉が出るというので
改めて手にして何よりも驚くのは 活版の組版の仕方である。
例えば 、や「」と言ったいわゆる「やくもの」が一字分を用いていない。ルビーと同じく脇に付けてある。
内容だけでなく 紙、造本や組版を含め
本は時代を吸い込む装置でもあるのだ。
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新版全集・予約募集のパンフレットにある編集委員の竹田篤司の文章から。
「寸心・西田幾多郎は、明治三(一八七〇)年に生まれ、昭和二十(一九四五)年に没した。その生涯は、近代日本の苦渋に満ちた足取りと完全に重なり合う。爾来、時を刻み、やがて六十年。それはおなじく苦難の中を歩み、かつ、歩みつつある我々自身の時代である。・・・・」
黴の生えそうな文章が 大変印象的だ。
第二次全集の「内容見本」からこのパンフレットに再録されていた加藤周一の『西田幾多郎全集への期待』が面白い。
冒頭部分を引用しよう。
「私は昔、年少の頃、西田幾多郎の著作のいくつかを読んで、よくわかりもしないのに感心していたことがある。また人の噂にその偉大な哲学者であるということを聞いていたのはいうまでもない。今、私は、年少の私自身の経験も信用しないが、人の噂も信用しない。・・・・」
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それにしても どんな人達が買うのだろうか・・・
何だか西田より加藤周一を読む必要がありそうだ(笑)。
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『自覺に於ける・・』
大正六年十月一日印刷 五日 第一刷發行。
手元の本は昭和十五年版。
最終頁より。
《此故に我々の精神現象は必ず一方に物體現象を伴ふと考えられる、》
《肉體的生活の意義は精神生活にあるのである肉體的生活は精神生活の手段に過ぎない、物質的生活に偏する文化の發展は決して眞の人生の目的ではないのである。》
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