深い意味はない。書架に九鬼周造や西田幾多郎 和辻哲郎 ブルーノ・タウト等が並んでいた。
偶々それら古い本に眼が留まって面白いと思ったまでの事・・・。
昭和十年十二月十五日に第一刷が出ている。
手元のは 昭和四十三年五月十日 第八刷。
今日は 2003年2月10日で何の神秘も入り込む隙間はない(笑)。
記念に適当に開いた頁から書きうつしておこう。
《すなわち藝術が偶然を對象内容とすることを好むといふのは、偶然が生命感を伴う事實に基いてゐると思ふ。》
《藝術にあつては絶對的自發性が突如として現じ、忽然として消えるところに謂はゆる靈感と冒險の偶然性があるのである。
天才とは原始偶然の偶然性を反映して自己の制作に驚異の眼をみはる者である。》
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酔狂にも一緒にあった『「いき」の構造』を更に取り出してみると箱が「貼り題箋」である。ああ懐かしい・・・・本そのものが美しいこともあって十代のとき買った物と奥付で分かる。
加藤周一の言葉 「年少の頃、よくわかりもしないのに感心していたことがある。」を思い出して自嘲する。
あれは西田幾多郎のことだが・・・
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岩波文庫版『九鬼周造随筆集』には《岡倉覚三氏の思出》がある。この人には天心・覚三を真実の父だと信じていた時代があったことを思い出して、あれこれ懐旧の思いに 小生も耽る(笑)。
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無意識のうちに「偶然性の問題」に惹かれた理由として その後 気が付いたことがある。
それはパソコンの「フリーズと文章」の関係だ。
“291”にしても まだ工事中の状態にある『FABER CASTELL』にせよ 一旦書いた文章が 途中で喪われると 通常の未定稿や
下書き、トライアル・プルーフとは異なった「やり直し・書き直し」を強いられることになる。
その事が 文章を書く上で 長期的にはどのような影響を与えていくのか
今の僕にはまだ 見極めが付かない。
(細かく「保存」すれば良いというのとは 少し次元の違う話として )
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