《 僕等は皆
逆立ちの Dancer
押し黙ったまま ただ
踊る
Step も決めず
冷えた身体 揺らすだけ
窓の外は闇
窓の外は 闇 》
この七〇年代の名作というしかない絶唱は『SPACY』LP 試聴盤で77年に聴いてから
何度聴いても こころ動かされる
あの時代から間もなく四〇年が経つ
敗戦によって日本に主権がなかった時代「占領下の子どもたち」の直後
一九五三年二月うまれのポスト・オキュパイド・チルドレン 山下達郎もすでに六三歳
『DANCER』から一〇年ののち88年『蒼氓』
いま
この重く陰鬱な「うた」に改めて耳を傾ける気になっている
駄文を綴りながらユーチューブを視聴していて
驚いた ライブヴァージョン「蒼氓」のあいだに岡林信康の「私たちの望むものは 、、、」
あるいはカーティス・メイフィールドの「People Get Ready」が
力強く挿入されていたことだ (10:06秒〜)
ぼくの考えでは 山下達郎は
ミュージシャンとしてもひとりの自律した市民としても
かなりふかい部分をコアに持ったホモポリティクスである 。。
直接は関係ないが
今読んでいるレジス・ドゥブレ『思想としての〈共和国〉:日本のデモクラシーのために』から
とくに重要と思われる部分を引用したい
《 共和制においては、社会は学校に似ていなければならない。その場合の学校の任務はといえば、それは何事も
自分の頭で考え判断することのできる市民を養成することにある。ところが、デモクラシーにおいては、反対に、
学校が社会に似ていなければならないのである。デモクラシーにおける学校のもっとも重要な任務とは、労働市
場に見合った生産者を養成することなのだ。その場合、学校は「社会に対して開かれて」いることを要求される
し、また教育は各人が好きなように選ぶことができる「アラカルトな教育」でなければならない。共和国におい
ては、学校は囲い壁の背後にある、固有の規則を持った閉ざされた場所以外のなにものでもない。この社会から
閉ざされているという性質がなければ、学校は、社会的、政治的、経済的、宗教的な力の矛盾した作用に対して、
独立性(ライシテ=非宗教性の類義語だ)を保つことができないのである。学校についてこんな言い方をするのは、
人間を彼の置かれた環境から解放しようとする学校と、逆に、その環境によりよいかたちで送り込もうとする学
校は、名前は同じでもまったく別物だからである。共和国の学校は知性豊かな失業者を生み出すと言われ、デモ
クラシーの学校は競争力のある馬鹿者を育成しているというわけだ。これは両陣営による意地の悪い批判の応酬
である。》 「あなたはデモクラットか、それとも共和主義者か」 より
デモクラシーと社会主義しか選択肢がないとか
この国のポツダム民主主義と選挙制度だけが至上の政治形態と信じ込んでいるひとは
狭量なうえに騙されている
ぼくが罵倒する 国畜あるいは絶対愚民 は その事実に立脚している 。。。