「地獄」あるいは「陶酔」論。  —— ボードレールとベンヤミンに倣いて ——

 

  私見では

この世こそ が 地獄である。

この世とは 現世 穢土 濁世

      現実とも 社会とも 世界とも呼ばれる

        「ここ」

あなたが立っている ぼくも立っている 

生きて 呻吟している この「苦界」である

  そして これから語るのは 

不埒にも 麻薬の現代性/モデルニテ とその活用に関して

 ギリシャでは  

破滅的経済危機に懊悩憂悶する 現代ギリシャでは

剣呑で安価な 合成薬物が 蔓延している

  「SISA」 シサ シーシャ

もともとはペルシャ/アラビア語圏で ガラスを意味し 

派生的に水タバコと同じ言葉 sisa で呼ばれる 新ドラッグは

  一見すると メタンフェタミン = シャブ/スピード/クリスタルメス そっくり

合成方法など 一切不明だが

安く ひたすら廉く 路上生活者にも 買える

「貧困者のコカイン」として 1ユーロから2ユーロ程度で 流布 蔓延している

   危険は 承知のうえ 

これ以上 生活上のリスクはありえない 路上の生活者が 

まさに 貧者の阿片として 

宗教にも捨てられた現代人として 

束の間の「福音」 強い副作用のある「恩寵」を もとめる

それを ひとは「陶酔」と呼ぶ 

   メランコリーなダンディスム

遙か遠く紀元前四世紀 ディオゲネスの時代 

     あるいは 

近くは十九世紀 ヴェルレーヌの頃より

さらにメランコリーの度を深めた 路上のダンディスム

                   地獄としてのダンディスム

 

いったい誰が どのような立場 何の資格で 

       シーサ吸引を 闇雲に否定できるだろうか

 (当人が)拒否はできる 

  だが 

崖淵にたつ他者の 瞬時の陶酔を 誰が批判できるのか。。。

  路上生活という地獄で与えられる 儚すぎる快楽 

困窮と絶望の私生児 分陰の麻痺 を

       ・   ・   ・

  横張 誠[編訳]『ボードレール語録』から引用しよう

ボードレール著作集を概観すれば、一八六〇年刊行の『人工天国』のほかに、『悪の

 華』の「葡萄酒」の章に収められた五つの詩篇散文詩「酔いたまえ」のように、表題を

 見ただけで、陶酔がかかわっているのが明白な作品の存在に気づく。「葡萄酒」の章の五

 篇のうちには、最初期の一八四三年かそれ以前の作品らしい三篇と、より漠然と一八四〇

 年代の作かと思われる一篇が含まれている。これらとは逆に「酔いたまえ」の初出ははる

 かに遅く、『フィガロ』紙の一八六四年二月七日号だ。この年の四月末にブリュッセル

 移住する詩人が、パリ居住期間の最後の時期、晩年に近い頃にこれを発表したわけである。

 さらに、これらの中間に執筆されたエドガー・アラン・ポー論の中の酩酊に関する考察を

 思い出す読者もいることだろう。陶酔という枠組みに沿って詩の本質を究めるという立場 

 を選んだ以上、当然のことだが、このようにボードレールは生涯、陶酔に関心を抱き続け 

 るのである。その末に彼が、「酔いたまえ」で陶酔についてきわめて単純な、健全といっ

 てもいい結論に達しているのには驚かざるをえない。「いつも酔っていなくてはならない」

 という文で始まるこのごく短い散文詩は、何に酔えばいいのかといえば、「葡萄酒でも、

 詩でも、美徳でも、お好きなように」と説くだけなのだ。まるで麻薬は論外といったふう

 だ。この作品を単独に読んだら、つまらないと感じるだけかもしれない。長期に亘る思索

 が、この肩すかしに帰結する回路がどのようなものだったのかを推測するのはあとにまわ

 そう。》

 《 ボードレール自身が「ハシッシュの詩」でこう書いているのを読めばさらにはっきりする。

  私が〈人工理想〉と名付けるものをつくり出すのに最も適した薬物のうちで、[……]

  蒸留酒と、[……]香水を別にすれば、最も強力な二つの物質、一番使いやすく、一番

  手近なものは、ハシッシュと阿片である。

  これで、「人工理想」とは、薬剤の使用や飲酒で起こる陶酔状態にほかならないことがわかる。》

             「第四章 陶酔と覚醒」より

        ・   ・   ・

   真理と事実は むしろ 意外な場所に ある

  蒸留酒と香水 ハシッシュと阿片 そして 書物

  ぼくが 読書に打ち込むのは ひとつには 脳内麻薬の分泌が

     読書によって習慣化されているからだ 

 つまり

ぼくは 朝からのマティーニ 昼の冷や酒の 盃 のように 本を手にする

 本を読み始めて 数行 あるいは 次の頁を捲るころには分泌される

 内因性カンビナイド ドーパミン モルヒネの数倍強いβエンドルフィン 

           髑髏杯ならぬ

           読書ハイ / 笑。

引力圏 重力からの脱出 地上からの亡命とは けして故なき法螺ではない

           詳細は省くが

   小説やマンガ その他の駄本を 山の如く読んでも効果は薄いだろう こと

          修行以前に

 本を選ぶ先天的な才覚 天賦の集中力が必要なこと を 不憫だが 残忍非道に云っておこう /笑。

      読書行為とは アタマのなかで行われる 観客のいない演奏活動であり 

         いわば 密教的技法/スキル 魔法 なのだ

    読書術は 脳内の錬金術であり 思念と想念の 初歩を含んだ高等魔術である

              それが理会できなければ

      少なくとも 次元の高い〈「脳内麻薬」遣い〉には なれない  

 

              ☆

上野俊哉『思想の不良たち:1950年代 もう一つの精神史』からも引用したい

《 六〇年代のアメリカの対抗文化やヒッピー文化の影響もあってか、鶴見は幻覚物質の効果や可能性(と

 危険性)にしばしばふれている。ハックスリーを読んだ四〇年代の時点でも彼はプラグマティズムの周辺

 と見られてきた部分を積極的に評価し、援用しようとしていた。すでに述べたように、こうした側面はプ

 ラグマティズムの本丸の一つであるW・ジェイムズのなかにもあった。ハックスリーだけでなく、ジェイ

 ムズの著作が対抗文化に影響を与えた事実は、『アメリカ哲学』が七六年に増補されたさいに指摘されて

 いる。教科書的な理解からは意外に受けとられるかもしれないが、ジェイムズの思索のなかには一種の

 「陶酔論」が見てとれる(ジェイムズはときおり哲学そのものを「自家中毒」に喩えている)。たとえば彼

 はアルコール(中毒)についてこう言っている。

  「たらふく飲んでは人を堕落させる毒となるとは、なんという人生の深刻な神秘であり、悲劇であろう。

   酩酊した意識は神秘的意識の一片である。」

    ジェイムズは、アルコールは素面のときには忘れられている人間の潜在的な力、人間の内なる神秘を解

   放すると主張している。意識の周縁部、思考のへりに向かう機会を陶酔や酩酊、脱自=恍惚は与える。》

      「第一章 トランスローカルな転回と倒錯 鶴見俊輔」 第一節 間奏曲 より

               ☆

 最後に『宗教的経験の諸相』から ジェイムズが紹介しているトルストイの言葉を 

《 「それだのに、私は、私の生活上のいかなる行為にも、納得のゆくような意味を与えること

  ができなかった。そして私は、私がそのことをそもそもの最初から理解していなかったこと

  に驚いた。私の精神状態は、意地の悪いばかげた冗談をいって誰かにからかわれているよう

  なものであった。人は、生に酔い痴れている間だけ、生きることができるのである。しかし、

  酔いがさめると、人生がまったくばかげた詐/イツワりであることを悟らざるをえない。人生につい

  てもっとも真実なことは、人生にはおもしろおかしいことなど何もないということである。

  人生とはただもう残酷でばかばかしいだけのものである。》

        『宗教的経験の諸相』 「第六・七講 病める魂」 より

   

            ☆      ☆     ☆

 読み始めたばかりの伊藤徳也「生活の芸術」と周作人:中国のデカダンス=モダニティ』に

トルストイボードレールに関する興味深い記述があった「読書魔術」の顕れとして引用し 記録する 

                                       7月28日 

 

《 そんな周作人の美学的議論のことを、善が没却された「唯真実論」だと批判した論がある。確かに彼が求めた善

 は、表面的な善と必ずしも一致しなかった。しかし、彼にとって善も実は常に重要なテーマだった。例えば彼は、ト

 ルストイが『芸術とは何か』の中で批判したボードレールの『悪の華』を取り上げて、それを「善へ向かうもの」と

 して認めるとともに、ボードレール大麻吸引に触れて、その「現世を超えた楽土を求めようとする欲望」は、「紳

 士たちの満ち足りた楽天主義よりずっと人間的であり、ずっと善たるものだ」と指摘している。おそらく、周にお

 ける真善美とは、そのまま平板に一致するのではなく、真善美それぞれが表面的には一見矛盾しながらも、奥行きを

 持って究極のところで一致するものとして考えられていたのだ。》

             [第二章 美 三 美の多様性]より

☆  2015/07/12 記 //  07/18 再記 

  ギリシャに蔓延しているドラッグに関してかつて書いた

  読むと丸二年経ったいまもまったく腐っていない

  悪戯ごころから 一時的に「現在の日記」として挙げることにした 

  数日で戻すつもり 本来「2013/07/18」の日付だが

  元に戻す際 音感的理由でダンディズムをダンディスムに変えた

  http://jp.vice.com/program/... [日本のメディアでは報道されないアテネの路上]