お金と成長
原子力エネルギーを利用するさい、それが軍事利用であれ、“ 平和利用 ” であれ、そこに起こりうるすべてを
管理し、うまく使いこなせると信じるのは、あるいは平気な顔でそう主張するのは、まったく狂気の沙汰と言
わざるをえない。それはどの陣営の責任者もあまりによく知っている。それにもかかわらず、“ 大惨事/ガ ウ ”が起
こると、かれらはいつも、これが最後であり、このようなことはもう二度と起こらないと断言するのだ。それ
はこれまでもそうだったし、これからもそうありつづけるだろう。
子ども殺し
だれのなかにも子どもがひとり。
ほかの世界からきた子ども。
この世の王たちは、
この子をゆるさない。
大きくなったときの、
この子の力をおそれるのだ。
夜陰に乗じて、槍を持ち、
子を殺そうと城を出る。
いずこの王国から来たのかと、
子に問いただす。
そして子がなつかしむときには、
すでに人殺しの手のなかに。
そしてヘロデの学舎 / マナビヤでは、
子は心をいためて、こう学ぶ。
天に故郷 / サトはありませぬ!
こうして子どもはたやすく殺せる。
死が君たちに近づけば、
ああ、愛しの子らよ、こう思え。
子ども殺しがおこるのは、
救世主がいるときだ。
ファンタジーとアナーキー
世の独裁者たちがファンタジーに対して徹底した不信感をしめし、すきあらば禁止しようとしたのには、そ
れなりの理由があるにちがいない。かれらはファンタジーに強迫観念をいだき、こわがっているのだ。ファン
タジーが人間にそなわるアナーキーな力だからである。このアナーキーな力には極が二つあり、破壊の極と創
造の極がそれだ。ファンタジーは従来の思考秩序を解消し、しかし同時に新しい観念を生み出したり、すでに
ある観念を新しい関連に置く。有効なのはこれだけだと言い張り、すべてがその秩序のなかでスムーズに機能
するように押し通そうとする。硬直したシステムが、みんなこれに抵抗するのは言うまでもないことだ。
この意味において、わたしたちはいわゆる “自由な世界” で、今日、ようしゃない市場化と競争社会という、
同じようにひとつの独裁制のなかに生きているのだ。この世界では、人は早い時期から、すでに学校で、能力
思考をめざした特訓を受ける。そこではファンタジーは “ブレーン・ストーミング” として認められるのが
関の山だ。新製品のアイデアや新しい販売戦術を開発するためである。目的にしばられないファンタジーはエ
ネルギーの浪費とされる。しかし、このくびきの下ではファンタジーはいじけ、病気になり、死んでしまう。
それは人を病気にもする。特に子どもがそうだ。身体も心も病気になる。わたしたちのまわりの病院には子ど
もの患者が増えつづけている。マネージャー病、胃潰瘍、ノイローゼはいうまでもない。そして、それは啓蒙
と進歩の名においてなのだ。
世界を変える
この世界を変えねばならないとは、ここ百五十年来、よく言われ、書かれつづけてきたことだ。むろん、そ
れは “ よりよくする ” という意味だったが、しかしこの言葉は避けられ——今日でもなお避けられている。
「世界をもっとよくしよう」と言うと、実際的な響きが乏しいのだ。さて、われわれが世界を変えたことはう
たがいない——それは、そろそろ別の世界をさがさねばならないほどだ。
魔法使いの弟子のみなさんに警告
王子を蛙に変えるのは大したことではない。比較的簡単だ。ご機嫌ななめの課長なら、だれでも毎日やって
こなす。でも、蛙を王子に変える、これには大いなる芸か力か、それとも、愛がいります。
『エンデのメモ箱』より
1996年9月 岩波書店 刊 ミヒャエル・エンデ 著 田村都志夫 訳
☆ エンデとは 道の終わり / 行き止まりを意味する。また《 ミヒャエルとは「神に似た者はだれだ?」と言う意味だ。ミヒャエルは、大天使のなかでただ一人、その名が問いなのだ。この問いを悪魔は答えることができない。これが大天使の剣である。》と、彼はこの『 遺言的箴言集 』の「ミヒャエルとアダム」という短文に書き遺している。