Memento Mori  転生輪廻 もしくはDiaspora の実験として。

これは 

今日あるいは昨日 突如消滅 

いや 新しい占有者によって滅ぼされた『イタリア関心空間』における

グラッパ/古い瓶の日記]こと『幽艸堂日乗』最後の日までの引用である。 

内容は悪夢的僥倖として「最期の記述」に あまりにもふさわしい / 笑。

2012.4.27[金] 

《 凡そ存在するものはすべて無を契機として含んで居り、あらゆる存在者の根柢にはかならず無がひそんでいる。何かが有るということは、すなわち無いということでもある。我々の経験圏中に入り来るものにして絶対的に有るといい得るものはなく、あらゆるものは無の絶壁上に懸けられた危うく脆き存在である。人は自己の、そして自己以外の万物の存在が含む此の無の契機に対していいしれぬ不安を抱き、万物を呑下せんとする暗冥の深淵を時として覗き込んでいまさらのごとく慄然とする。意識なく自覚なき諸々の事物は、己が存在の基底にひそむ無の契機を知ることなく、ただ端的に無を抱きつつそこに在るだけであるが、自己の存在性を自覚するところの自覚的存在者たる人間は、ほかならぬ我れと我が身に於いて、直ちに万物の存在が包蔵する無の深底を自覚するのである。「悲劇的実存」といい「実存の不安」といわれるものは、かくのごとく存在そのものが既に存在否定的要素を不可避的に抱いている事実、即ち存在の非存在性という根源的パラドクスに深く基いているのである。

 存在者の有がその本質的要素として無に裏づけられ、無を含むということは、それが本質的に相対的存在であるということにほかならない。存在の含む此の無がいわゆる「無の深淵」の不安として自覚的、実存的に把握さるるにしても、或いは自同律A = Aの反面としていわばこれを裏から支えている矛盾律A ≠ non A の形で論理的・ロゴス的に表明さるるにしても、畢竟するにそれは存在の相対性を意味するのである。存在の無とは自己の裡なる無であると共に、他者に対する無でもある。すなわち全ての存在者は他者を否定することなくしては自らの存在を確保し得ぬ罪深きものなのである。イオニア的考えによれば存在そのものが既に「不義/アディキア」なのである。およそ世界にあるものは悉く他を否定し、他を限定しまた他によって否定され、限定され、かくて相互に「罪を犯しつつ」存在する。

 紀元前六世紀、かのミレトスのタレスを生んだイオニアに於いては、幾多の詩人達が去来転変して窮まるところなき諸物の儚さを深き抒情の主題として、哀韻嫋々たる悲愁の歌を竪琴の絃にのせていたが、これとならんで哲学者達も同じ無常還流のペシミズムの中にあって、同じ存在界の生滅成壊を主題としつつ思索を尽していた。広きギリシア世界に於いてイオニア人達は変転止ることなき事物の実相を繊細なる神経によって敏感に意識し、その堪えがたき哀感に深く胸を痛めた最初の人々であった。そこでは詩人も自然学者も区別はなかった。かのヘラクレイトスが「同一の河流に我々は足を入れ而も入れず、我々は在り而も在らぬ」という時、彼は存在の動的実相を説く哲学者であると共に、万象転変を歎く憂愁の詩人でもある。存在の根源的悪に対する哀傷は、前六世紀イオニアの精神的空気であり、あらゆるイオニア人がこの空気を吸って生きていた。》

  井筒俊彦『神秘哲学 ギリシアの部』附録「ギリシアの自然神秘主義――希臘哲学の誕生」

        第二章 自然神秘主義的体験――絶対否定的肯定]より

2012.4.26[木]

如来や菩薩は象徴であって実在しない、それは「象徴」に過ぎないという視座に、井筒俊彦は現代的精神の脆弱化を見る。むしろ「象徴」は「コトバ」が現実界に顕現する通路である。「象徴」は、その後ろに不可視な何ものかが存在することを明示する。「比喩」こそ実在である、と言う井筒が、どうして菩薩の実在を疑い得るだろう。それは「我々の面前に、そして我々自身の内部に実現している。見る目をもった人だけに、それがみえる」のである。

 マンダラに続いて、彼は、「本質」実在論の一つとして、イマージュの世界、「元型」を論じる。元型論といっても、彼はここでユングのいうアニマ、アニムス、老賢者、グレートマザーといった個別型を論じるのではない。井筒がその術語を軸に論じたのが『易』である。彼は『易』の八卦に、「コトバ」の自己展開と意味誕生の過程が生々しく記憶されていることを看取し、八卦の一つ一つに神話が刻印されていることを指摘する。コトバは本来的に「神話詩」を内に秘めている。コトバにおける神話形成的発展性(mythopoesis)とは、その特徴であるより、むしろ、根源的性質、本性であることを論じる。

 神話は、単なる「作り話」ではない。超越者の自己顕現の一形式である。人間が神話を作るのではない。超越的なる事象が神話という「元型」を選ぶのである。

 元型とは、個人の無意識とは別に、文化あるいは共同体の存在基盤を決定する精神的範型である。私たちはここで元型を、イブン・アラビーが「永遠の範型」、「有無中道の実在」と表現した働きの類比的存在として考えることもできる。井筒はこれを「本質」の一つに数え、実在を認める。

 元型は人間意識の深層構造を根本的に規定する「文化の枠組み」と深く結びつき、共同体において独自の発展を遂げる。「つまり、時代と地域との別を超えて、すべての民族に、あるいは全人類に、共通するという意味での普遍性では、それ〔元型〕はあり得ない」。「全人類に共通する普遍性をもった『元型』というようなものは存在しない。個々の『元型』も、それら相互間に成立するシステムも、各文化ごとに違う」のである。仏教徒が、「瞑想的ヴィジョンにおいて、キリストやマドンナを見ないのはなぜ」か、逆に「キリスト教徒の瞑想意識の中に、真言マンダラの諸尊、如来や菩薩の姿が絶えて現われてくることがないのはなぜだろう」と彼は問う。先に見た伝統学派が一致に注目するのに対し、井筒は、「本質」の差異に意味を見出そうとする。

 

 「意識」の実相を把握するには、「意識が意識性を超えるところまで、つまり意識が意識でなくなってしまうところまで推し進めていかなくてはならない」と井筒は考える。「本質」究明にも同じ論理が適応される。「本質」が本質性を離れ、本質が本質でなくなるところまで論じなくてはならない。

 「本質」を我々の「意識」が捉えた瞬間に、「これこれのものがそこに存在する。例えば山が、あるいは川が」と井筒は書いている。その言葉に従うと、深層意識が事物を捉えることがなければ、人間は、その実在を実感することがないばかりか、事物は存在すらしないことになる。「意識」には、階層がある。「本質」は意識的階梯に順じて姿を変じる。あるいは「存在」は意識に応じて現れるといってもよい。

 ここで井筒が論じる「意識」の究極態は、私たちが実感する意識、精神分析学が範疇とする無意識を含むそれではない。井筒は言葉を超越し、ときに究極者をも含意する術語として、「コトバ」の一語を生んだが、その異名として、「意識と本質」で一度だけ「ココロ」と書いたことがある。

 「このコンテクストで使う『無心』『有心』は同義語ではない。『無心』『有心』とはそれぞれ違う次元で成立するココロである」とあるように、「ココロ」こそ、「意識が意識性を超えた」実在なのだが、それが本格的に論じられるのは、絶筆となった『意識の形而上学――『大乗起信論』の哲学』における意識的超越者「心/しん」の論究まで待たなくてはならないのである。「存在はコトバである」と井筒が自らの思想を収斂的に表現したように、「存在はココロ」でもあり得るということを彼は論じ始めていた。

  東洋哲学においては、認識とは意識と存在との複雑で多層的なからみ合いである。そして意識と存在のこのからみ合いの構造を追求していく過程で、人はどうしても「本質」の実在性の問題に逢着せざるをえない。

 この一節は「意識と本質」の、ほとんど最後の文章だといってよいところにある。それは結語でもあるが、原点を明示してもいる。ここでの「存在」は存在者ではない。イブン・アラビーのいう「存在」、それは絶対的超越者の異名である。

 精神分析学の誕生以降、急速に広まった無意識という術語を用いることに、井筒俊彦はきわめて慎重だった。というよりも、この言葉を不用意に用いることを、ほとんど禁忌としていたようにも思われる。フロイトユングを揶揄しているのではない。むしろ、彼は精神分析の創始者と異端の後継者が果たした貢献と、問題提起に鋭敏に反応した一人だった。しかし、彼は現代に跋扈した「無意識」という虚像を全く相手にしない。「意識」は深く、厚く、混沌としていて、理論的な制御を寄せつけない。人間に許されているのは、その力動性を真に眺め、それに構造の仮説を与えて、一端であれ、それを経験することしかない。「意識」の実在は疑うべくもない。だが、その底に無意識と呼ぶべき怪物が横たわっているのではない。無意識という限定は不要である。「意識」自体、もともと得体がしれないのである。

 

  底の知れない沼のように、人間の意識は不気味なものだ。それは奇怪なものたちの棲息する世界、その深みに、一体、どんなものがひそみかくれているのか、本当は誰も知らない。そこから突然どんなものが立ち現われてくるか、誰にも予想できない。 》

            若松英輔井筒俊彦 叡知の哲学』

        [第九章 『意識と本質』:「意識」と「本質」]より

2012.4.25[水]

ユングが一九三〇年一〇月にヴィジョン・セミナーをはじめたとき、彼も世界全体も、第一次世界大戦で蒔かれた種が恐ろしい実を結ぶ、嵐のような一〇年間に踏み込んでいた。第二次世界大戦第一次世界大戦の苦い産物であるように、ヴィジョン・セミナーはユングが『無意識の心理学』ではじめたことの結果であった。ユングは女性の無意識ばかりではなく、自分自身の無意識や集合的無意識も探求していた。そこでは、排除されていた女性的なものが、創造と破壊の発酵体を温めていた。ユングはそれを承けて、集合的無意識のなかの否定的女性像を現代の悪と次のように関連づけたのである。「私たちの世界観は、暗闇をも扱わなければなりません。それが大きな影を投げかけているのです。その影/シャドウは成長しつつあります。そして暗い諸力の異常な発達のあらゆる側面に姿を見せています」。

 ユングによる探求の一部には、拒まれた女性的なものが持つ暗い側面を光の中に持ち出し、その復活を吟味するという目的があった。そのため、モーガンのヴィジョンを解釈することには、特別の緊急性が伴っていた。というのは、彼が、モーガンのなかに高まってくるものの軽躁的な強度と「火山のような諸力の噴出……ドイツにおける……無意識の急激な高まり」との間に集合的なつながりを見出していたからである。当時、この集合的無意識の高まりは、悪い母親を甦らせ、ヨーロッパをヒステリー的な獣性へと押し流していた。ユングは、ヴィジョン・セミナーの後に行なったニーチェに関するセミナーで、こう言っている。ヒトラーは女性的なものを光と意識のなかに持ち上げるかわりに、ドイツとヨーロッパ全土を元型的否定的女性像の住処である非常に暗い悪夢へ投げ込んだ、と。ユングがヴィジョン・セミナーの時代性を強調するとき、畏怖と恐怖の感覚が現代の読者を襲う。彼は、彼自身とグループが抑圧されていたものの復活を感じていること――ときに激変するモーガンのヴィジョンに出てくる強力でしばしば否定的な女性像のなかであれ、ドイツで実際に起きつつあった国家社会主義の台頭のなかであれ――に心理学的な意味を見出そうとしている。

 ユングはよく、そのような混沌とした時期に「私たちの眼前で起きているできごとについて判断」しようとしても難しく、「道に迷ってしまう可能性がある」と語っていた。モーガンのヴィジョンは、きっとこの警告の必要性を証明するものだろう。つまり、抑圧された状態にあった女性的なものは、ユングにとって、手なずけようのない燃えるようなイメージを伴って復活してきたのである。クリスティアナ・モーガンのヴィジョンには、冥府に再び入って女神たちの神秘にイニシエートされ、それを意識に持ち帰ってくるための内的探求が含まれている。このセミナーから伝わってくる、好機を逸したという悲劇的な感覚は、一部、次のような感じがすることから来ている。すなわち、もしもユングとセミナーのメンバーがモーガン本人をも仲間に加えて各々の道を歩み、そのなかで彼女の語る女性性の秘密をもとに自分自身の神秘を解明していたならば、ユングと彼のグループはこの強力な女性的エネルギーに背を向けずにすんだかもしれない、という感じである。ユングは、自分自身や集合的な心が、ゲーテの述べる恐ろしい母たちの領域へ旅しなければならないことを知っていた。しかし、セミナーのメンバーは、モーガンのイメージに敬虔かつ虚心についていこうとはせず、またイニシエートされようともせず、永遠なる女性的なものが自分を全体として認めてほしいと叫ぶ声に、部分的に耳を塞いでしまった。彼女は全力を出すことを拒まれたのである。

 ユングと彼の弟子たちがモーガンの先駆的な女性性の声に抱いた懸念は、テクストに対する彼の不快感の増大によって強められた。聴衆は彼が霊的指導者/グルとなってくれることを期待していたように見える。セミナーのメンバーは、彼の発言をまるで神聖な令状ででもあるかのように受け入れており、ときにはこの語り手を崇拝するようなこともあった。これはユングがテクストに情緒的につながる妨げとなったにちがいないが、一九三〇年代の大混乱した政治的世界へのつながりについても同様であった。》

     氏原寛 老松克博 監訳 角野善宏 川戸圓 宮野素子 山下雅也 訳 

       C・ダグラス編 C・G・ユング『ヴィジョン・セミナー 1』

           [クレア・ダグラス 編者による序]より

2012.4.24 [火]

《 歴史上、最も輝かしい成功をおさめたプロパガンダといえば、一九一四年の第一次世界大戦勃発から一九一七年のアメリカ参戦までの期間、アメリカで行われたキャンペーンだろう。これは三つの主要な目的を果たした。イギリス、フランス、帝政ロシア、日本、ポルトガル、イタリア、オランダ、ベルギーといった諸帝国連合の側で参戦することに対する大衆の支持を得る。人民主義/ポピュリズム、社会主義フェミニズム、反軍国主義、そして反帝国主義などの運動の大波を挫く。そして、合衆国を大規模な軍隊を持つ工業化された軍事国家に変える。こうした目標を達成するには国家の総力を戦争に傾け、「徴集兵より成る軍隊と軍事国家の基礎」をアメリカ国民に受け入れさせることが必要だった。戦争準備の太鼓が鳴り響き、軍国化はアメリカ生活の主要テーマとなる。一九一六年の中ごろには「戦争準備の大パレード」が朝から晩までアメリカの諸都市を賑わした。このキャンペーンに不可欠だったのが、アメリカの未来戦争小説が広めた侵略される悪夢と勝利の白日夢だったのである。

 一九一四年以前、ドイツを侵略国や敵として描くアメリカの小説はほとんどなかった。しかし、一九一四年から一七年に怒濤のごとく出版された未来小説群においては、反ドイツのイメージが他を圧倒し、かつて想像されてきた敵国はほとんどすべて姿を消してしまう。ドイツが無防備なアメリカを侵略するという生々しい描写に繰り返しさらされ、読者はこうした恐ろしい光景が想像の産物にすぎないとは信じられなくなっていたかもしれない。

 すべての読者層に向けて、こうしたメッセージが発信された。事実と数字をたっぷりと示した小冊子は、架空の男たちが夕食後に葉巻を吸いながら語り合うというスタイルで、裕福な国民をターゲットにしていた。ロマンスは女性たちの心を捉えるように意図されていた。少年向け読み物のシリーズは、じきに「すべての戦争を終わらせる戦争」に招集される若者たちの心を熱く燃やした。》

  上岡伸雄 訳 H.B.フランクリン『最終兵器の夢「平和のための戦争」とアメリカSFの想像力』

     [第二章 戦争のファンタジー 一八八〇~一九一七:ドイツの登場]より

2012.4.23 [月]

《 一九一六年の三月に、すでに退役していたロベールが徴兵審査委員会に出頭するため、ドローネー一家はフランス領事館のあったスペインのヴィゴに赴き、そこに八月まで滞在した。その後、一行はポルトガルのヴァレンサ・ド・ミーニョに移り、年が明けるとスペインのバルセロナへと向かう。そして、その地でソニアは祖国ロシアで起こった十月革命の知らせを聞いた。自伝の中でソニアはこの時、ロベールと共に「ロシアの民衆の将来を思い喜びの涙を流した」と述べているが、それは同時にふたりの主な収入源であったロシアのテルク家から毎月送られてきていたアパルトマン八〇戸分の家賃収入が絶たれたことをも意味した。したがって、この革命はソニアとロベールに大きな決断を迫ることとなった。ソニアは自伝の中でこの時の決意を次のように語っている。

 

  ロシアからポルトガルに至る長いヴァカンスは終わりを告げました。これからは社会と再びコンタクトを取り、私たちの発見を装飾芸術に応用する方法を見つけなくてはならないのだ。マドリードへ戻ろう。

 こうして一九一七年の暮れに、ソニアとロベールは生活の糧を得るため、再びマドリードへと向かうこととなったが、そこではふたりの転機となる仕事、そして何より詩人たちとの新たな出会いが待ち受けているのであった。

 

 マドリードに到着したソニアとロベールは、その頃、同じようにパリを離れ、スペインに滞在していたバレエ・リュスを率いるセルゲイ・ディアギレフと知り合った。親交を深める中、ディアギレフはロンドンで再演が予定されていた『クレオパトラ』の衣服をソニアに、そして舞台装置をロベールに依頼した。この舞台はすでに一九〇九年六月にパリのシャトレ座でバクストによる衣装とセットで初演が行われていたが、その後の南米ツアーの最中に遭遇した火災によってすべてが消失してしまっていた。

 ソニアは歴史に名高いエジプトの女王の衣装を作るに当たり、少女時代にサンクトペテルブルグ仮装舞踏会で自身が身にまとったエジプトの女王の扮装や、結婚前にロベールとふたりでよく足を運んだルーヴル美術館のエジプト美術の展示室に思いを馳せた。ソニアの郷愁とシミュルタネの芸術とが結びつき完成したこの衣装は、一九一八年一〇月に一風変わった演出と共にロンドンの観客の前で披露された。

 ルボフ・チェルニチェヴァ演じる王妃クレオパトラは、体に帯を幾重にも巻きつけたミイラ姿で舞台に登場した。そして、この時、クレオパトラの体を包んだ帯というのが、同時対比の色彩で円や幾何学模様を描いたソニアのスカーフであった。帯は順々に解かれ、すべてが取り払われた時、胸と腹部に太陽のモティーフを施した衣装をまとったクレオパトラがその姿を現した。初演の後、ディアギレフは興奮冷めやらぬまま、マドリードのソニアとロベールに電報を送った。そこには、「言葉では言い尽くせない成功と共に公演はスタートを切りました。幕が上がると、ロシア人オルマックが描いたあなたの装飾に観客は拍手喝采でした。クレオパトラの衣装は本当にすばらしい」と記されていた。

 「クレオパトラ」の舞台を機に、ソニアはスペインで注目を集めるようになるが、ソニアのマドリードにおける決定的な成功は、この頃ディアギレフを介して知己を得たバルデイグレシアス侯爵によってもたらされた。『エポカ』紙の発行者で上院議員でもあったこの侯爵は、マドリードの名門貴族たちの間でも選り抜きの存在であった。ソニアはバルデイグレシアス侯爵を通して、その友人の貴族たちからも注文を受けるようになるが、やがてソニアの仕事に興味を覚えた侯爵は、出資者としてマドリードの一等地にブティックを提供することをソニアに申し出る。こうして一九一八年にインテリアとモードの専門店「カーサ・ソニア」がマドリードのコルメラ通り二番地にオープンした。》

         朝倉三枝『ソニア・ドローネー 服飾芸術の誕生』

  [第2部 詩と衣服 第5章 1 ポルトガル・スペイン時代 カーサ・ソニア]より

2012.4.23 [月] 

鈴木晶 訳 シェング・スヘイエン『ディアギレフ / 芸術に捧げた生涯』読み始める。

2012.4.22 [日] 

慶應義塾大学アート・スペースから「土方巽中西夏之『背面 The Back』」フライヤー届く。

2012.4.22 [日] 

立花文穂さんから『球体 五号 GROUND 5』届く。

前号から二年半ぶりの刊行だという。

表4の編集後記に「ノー モア ヒロシマズ」とある。芸術とデザインの「塩淡境界」に棲息する不思議な感覚そのもの。安直・安全な理解を求めない意志と姿勢に、深い感銘と感謝。

2012.4.21 [土] 

《 そして一九一八年七月、ツァラは「ダダ宣言一九一八」を発表する。

 

  僕は宣言を書く、だが何も望まない、しかも何かを語っている。僕はあらゆる原則に意義 * を申し立てると同様に、宣言にも原則として意義 * を申し立てる……僕はこの宣言を書いて、ただひとふきのさわやかな息吹のなかで、相反するいくつもの行為を同時になしうることを示したい。僕は行為を嫌う、そのたえざる矛盾のゆえに、さらに断定のゆえにもまた、僕は弁護もしないし非難もしない、まして説明などしない、なぜなら良識/ボン・サンスを憎むから……自由よ。DADA DADA DADA、ひきつったくるしみの叫び。相反し矛盾するいっさいのもの、醜怪なもの、不条理なもののからみあい。つまり、生/ラ・ヴィだ。

 ツァラアイロニーと反逆精神に満ちたこの宣言以後、ダダはヨーロッパ各国で急速に展開する。しかし、一九一八年一一月に終戦を迎えると、スイスに逃れていた芸術家たちは祖国に戻り、それと同時にチューリッヒ・ダダは急速にその影響力を失う。一方、その頃パリでは、ダダの思想に共鳴する若い文学青年たちがいた。それはアンドレ・ブルトンルイ・アラゴン、フィリップ・スーポーの三人で、一九一九年に文芸雑誌『文学/リテラテュール』を創刊した彼らは、ツァラがパリに来て、自分たちと共に何か新しいことを始めることを切望するようになる。それに加えて一九一八年以来、ツァラとコンタクトを取ってきた画家のフランシス・ピカビアの熱心な誘いもあり、一九二〇年一月、ツァラチューリッヒを離れ、パリへと向かった。そして、この時からパリ・ダダの運動が急速に展開されることとなった。

 パリに到着するとすぐにツァラは、「夕べ」と題し、ダダ式のパフォーマンスを行うようになるが、その突飛で意表をついた夕べの噂の数々は、マドリードのソニアとロベールのところにまで届いた。ソニアは一九七六年に行われたインタビューで、「この言葉による錯乱状態を前に、私たちは言いました。“ 私たちが考えていたのはまさにこれだ ”」と述べ、ツァラの試みの中に自分たちの芸術に呼応するものを感じ取ったことを明らかにしている。そして一九二一年一〇月、ソニアとロベールはダダの呼び声に導かれるように、七年過ごしたイベリア半島を後にし、再びパリへと向かった。

 パリに戻るとすぐにふたりは、ツァラブルトンをはじめとする若い詩人たちと交流を持つようになる。それは、ふたりがダダに惹かれていただけでなく、詩人たちの方も、敬愛するアポリネールの文章を通して知った「エッフェル塔の画家」、ロベールに大きな関心を寄せていたためであった。

 ソニアは一九七六年に行われた『新文学』誌のインタビューで、ブルトンをはじめとする詩人たちと出会った頃のある逸話を紹介している。

  私たちは導き手を求めていたシュルレアリストのグループと親交を結ぶようになりました。その指導者にロベールがなるだろうと言われていましたが、彼はグループのメンバーを導く術を知っている指導者タイプではありませんでした。だから、彼らがグループのリーダーになってくれるようロベールに頼んだ時に彼は答えました。「私は自分自身でさえ導くのが大変なのだ。その私が他の人たちをどうやって導くというのだ?」。

 ソニアはここで詩人たちのことを「シュルレアリスト」と呼んでいるが、一九二〇年代初頭のパリは、ダダからシュルレアリスムへと移行する揺籃期にあった。既存の価値観を否定するダダを受けて現れたこの前衛芸術運動は、偶然や無意識のうちにこそ、普段気づかない現実、「超現実」が現れると信じるもので、文学をはじめ、絵画や写真、映画等の諸芸術へと広がり展開されていくこととなる。

 ソニアとロベールがパリに到着して交流を持った詩人たちの中にも、やがてシュルレアリストとして活動する者たちが何人もいた。その先頭に立ち、リーダーとして活躍するようになるのが、一九二四年に「シュルレアリスム宣言」を発表するブルトンであった。しかし、そのリーダーに当初はロベールをという声が上がっていたというこの逸話は、この頃のロベールと詩人たちとの関係を知る上でも大変に興味深いものである。ソニアは自伝の中で、ロベールを取り巻く詩人の仲間たちを「ドローネー団」と呼び、「ラグビーのチームメイトたちのように、いつも一緒に出かけていました。少なくともダダイストシュルレアリストツァラの支持者とブルトンの仲間たちが仲間割れするまでは」と書き綴っている。》

☆ 疑義ありッ!/笑。 *「意義」とありますが、申し立てるのはフツー「異議」では、、。

         朝倉三枝『ソニア・ドローネー 服飾芸術の誕生』

[第2部 詩と衣服 第5章 詩人たちとの交流 2 パリ・ダダの時代 ダダの呼び声]より

2012.4.20 [金] 

C・ダグラス編 C・G・ユング『ヴィジョン・セミナー 1』読み始める。