『T.S.エリオット 三月兎の調べ 詩篇1909-1917』

壁に一枚のやや大きな銅版畫が掛けられている その畫の中に

‘In the room the women come and go

  Talking of Michelangelo.’

 と言葉/文字が 朱く刷られている。

T.S.エリオットの詩『J.アルフレッド・プルーフロックの恋歌』から採った一節。

D.ホックニー 1975年の作品 《ミケランジェロ賛》だ。

畫中の婦人たちが本を手にして歩いているのも何処か気に入っている。

この版畫と随分永く一緒に暮らしているとは言え

僕にとっての詩人エリオットは これまでその程度の関係でしかなかった。  

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図書館の面白さは 一生読む筈のなかった本を気紛れに借りたりする点にもあるだろう。

これはそんな一冊だった。

「面白い! 極めて面白い‥‥鎮静的に興奮する」 

【詩】に関して これほど興味深く 知的に高度で 愉しめる本は 初めて読んだ。

編者 クリストファー・リックスは最晩年に充る時代のエリオットの手紙を引いて編纂する者の決意を述べている。

《エリオットのものを編纂する任にある者は、この詩人の感情だけでなく、論議の力も勘案しなければならない。エリオットは1962年11月9日、ケンブリッジのモードリン・コレッジ学寮長the Master of Magdalene宛に手紙を書いて、こう言っている。

 「わたしは、自分の詩を公表する際には、常に次の三点をはっきりと心に刻み込んでおります。第一は、いかなる芸術家であれ、私の詩の図案化は許さないということ。第二は、いかなる学術批評家であれ(アメリカにはこの手の人が沢山おりますが)私の詩(『抹消』したものも含めて)を公表し、それに説明的な注釈をすることは許さない。第三、わたしのどの詩であれ、元の感覚で歌うに相応しい叙情性ありとわたしに思えるものでなければ音楽にすることを許さないということです。わたしの作品を使用する際のこうした三つのあり方すべてに対し、わたしが唱える異論は、一に帰します。すなわち、詩の解釈は作者のわたしと読者との間で発動されるべきものであるということ。一人の芸術家は、読者の想像力にまかすべき図案を与えているのです。注釈者は、読者と読者の感受性の直接的反応との間に割り込む情報を与えます。音楽もまた特殊な解釈です。それは読者と創作者の間で口出ししている。わたしは、わたしの読者がほかの何かのものからではなく、ただ作品だけから自分の印象を得て欲しいと思うのです。」》

その結果この本は エリオットの禁忌に触れず“詩の新しい読み方”を可能にした。

「解釈」するのではなく、エリオットが影響を受けただろう詩と詩人の【言葉・詞・辞の用例】を探し出せる限り提示することによって “詩の言葉”が重層的に立ち上がり透けるようにしたのだ。

構造的にはやや稚拙とはいえ ホロスコープの如く言葉が重なりあい 本来あるように“立体化”されるのだ。

これが面白くない訳がない。

少なくとも言語に対する充分な感受性があり理解力があれば 不思議と言っていいような快感があるだろう。

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〈今年75歳になられる筈の 日本T.S.エリオット協会会長 村田辰夫氏の ‘大変に入り組んだ複雑な構造を持つ本ゆえ煩瑣な様々の困難があっただろう’ 翻譯の成就に 深い敬意と祝福を。〉