《端・座・獨・酌》
《 アチクテ …… 彼女は言う、…… 死は私の生の原理です。…… 私は死すべきものとして生きています。私は樹から落ちる葉のように自分を感じます、回転し、渦を巻き、再び吹き上げられるやまた落ち、けれども自分の知らない樹から放たれ、この最初の死によって切り離された生を受けた葉のように。》
田上竜也・森本淳生=翻訳『未完のヴァレリー:草稿と解説』
[神的ナル事柄ニツイテ」より田上竜也訳
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加藤郁乎の『俳林隨筆・市井風流』を読んでいたら“等類句”という表現があった。類似、等類、奪胎の句のことである。
面白そうなことは子供のようにすぐに真似てみることにする/笑。
九 億 劫 以 前 も 同 じ け ふ の 雪
本歌は禅の仏頂。
九 億 劫 以 前 も 同 じ け ふ の 春
さて仏頂和尚はどんな顔をするか/呵々 20050121
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「悩みを愉しむ」こと さらにわかりやすく喩えると
秀れたブルースミュージシャンにとっての憂愁/Blues ‥‥‥2004101
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師走の晦日 久し振りに歩く昼の青山三丁目 悩みとは何か ふと言葉が過ぎる
20031231
人の子である限り賢人も悩む
ただ 賢者は悩むことを愉しみ
愚者は悩むことを愉しまない
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LVMHの総帥ベルナール・アルノーがインタヴューにこう答えていた。
《私の好きなセネカの名言は
「行き先を知らぬ者に追い風は吹かない」と教えています。》
なるほど、セネカですか・・・
『ブランド帝国“モエヘネシールイヴィトン”を創った男』より
このロングインタヴューの中で他にも興味深い発言があった。
《消費者は知的で、勘が鋭く、鋭敏です。》
消費者は莫迦で、鈍感で、欲張りです。
こう言い換えて何の不都合があろうか〔笑〕。
僕はアルノーが憎いわけでも何でもない。
何も考えない大量の人々の存在に「或る」感情が生まれ
それを持て余すのだ・・・
現代は
「メジャーと裁ちばさみ それに電卓を持った白い王様」が
「黄色や 黒や 白い 裸の下々」の有りっ丈の小銭を“甘言とイメージ”を弄して巻き上げる時代なのだ。
「消費者」が「王様」で有るわけがない。
自分の脚で立つことも自前の夢を見る事もできない人々が
時間/労働とひき換えに【ブランド商品】をあてがわれ
自らの生命を消費させられていくのだ・・・2003416
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エリック・ホッファーは 第一アフォリズム集『情熱的な精神状態』の中で
こう書いている。
《現代の神なき時代にあっても、以前の宗教時代と同様、人間は依然として自らの魂の救済に没頭している。啓蒙による既成の宗教の信用失墜は、決して人びとの宗教的衝動を弱めはしなかった。伝統的宗教は救済の探求を導き、日常化する。そうした宗教が信用を失う時、人は自らの魂の救済を自力で、しかも四六時中行わねばならない。そのため、生活のあらゆる部門……実業、政治、文学、芸術、科学から恋愛、スポーツにいたるまでのあらゆる部門において、ファナティシズムが噴出する。
かくして、宗教的情熱のはけ口を除去した結果、社会組織そのものが、一般に心の病に冒されやすい、すぐに燃えやすい体質になってしまった。》
中本義彦訳『魂の錬金術』より
ホッファーがこの文章を含んだ本を公刊したのは1955年のこと。
《人々が寺院に行かなくなり 教会が空っぽになった現代は
美術館が“拝観者”で溢れるようになった》
と述べている。 同じ現代の「空虚」を意味しているのだろう。
2003409
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イグナチオ・デ・ロヨラ自叙伝『ある巡礼者の物語』
門脇佳吉さんの「訳者まえがき」に あるこんな言葉。
《現代の日本人は昔の人がもっていたような宗教的感覚を失ってしまって、人生の旅路を歩む上での羅針盤を持たなくなった。
羅針盤を持たぬ旅人は苦難の迷路の多い旅路を安全に辿って、目的地に行き着く事はできない。人生という旅においても同じである。心の羅針盤(人生の最終目的の判断・意志決定・行動の基準となる)なしに、人生という困難な旅路を歩み通せない。
それだけでなく、他者の成熟過程を見抜くこともできないだろう。
なぜなら、時間軸を前方に向かう進展としての成長とは違って、成熟とは、内なる声に目醒め、その声に聴き従い、時間軸を超えた高次元に向かって飛翔することだからである。》
岩波文庫 青820-2
経験を積み
思索を深め
淨らかさを 喪わないこと.
2003402
想いには質量がある。いまの科学で計測できないからといって「存在しない」と決めつけるのは 古代人や野蛮人の心性にも遙かに劣る。
劣化した想像力と感受性が 列島と世界の子ども達の頭上を覆い卑劣な誘惑者として拝金主義が闊歩する。
スポーツも音楽も 拝金主義に汚染されていないものは稀だ。 2003307
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3000年ほどまえの中国では蝉型の玉を死者の口に含ませ 羽化登仙を願った。 2003226
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↓一番最初はここから始まりました。
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外に在っては疾風怒濤の酒乱であり 幾夜にもわたって鯨飲するワタクシも
家にあっては 簡素を極めた酒器で「端正に座り独り酒を酌む」。
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若い時 和歌短歌と俳諧と何れが自分らしいのか 考えたことがあった。
日本の現代詩と詩人が嫌いだったからだ。
理由は云うまい。
だがその時は 撰びかねた
と言うより 短歌も俳句も
そのどちらも 日本の現代詩と同じく
何だか 痩せて貧相なモノのように
思えて仕方なかった。
しかし朝[toki]は満ち
僕は 発語するだろう。
詩の言葉で
世界を見る。
言葉の彫塑で
世界を謳うだろう。
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その「長征」に於ける「雜嚢」の如きモノに
ここをするつもりだ。
短歌は 《幽・艸・堂・歌》に
それ以外の韻律と詩的散文はここに収蔵する。
物好きは ときどき見に来て欲しい(笑)。
… … … … 2003225ー6
森有正の「バビロンの流れのほとり・・」ではないが 今日 温泉の流れの脇にボンヤリ座して 心を何処か遠くに遊ばせていると 気がついた。というより 深いところで憶えていることを思い出した。
【死人などいない 在るのは 死体だけだ】
【死体 屍體 遺體 遺骸 亡骸 脱殻 ・・
何と呼ぼうと死体は脱け殻でしかなく 死は脱皮でしかない】
【これまで人類のほとんどが信じられた事を 今や多くの人々が信じられなくなっている。
虫や動植物から学べないほどに 倨傲に溺れ 本質的に無知となった人々
そしてその群れが創り出す 劣悪な文化とそれを反映した社会
嫉妬と悪意を底流とする社会と文化】
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【偉大なるアントワーヌ・ド・サン=テグジュペリが書いている事を 手許のノートから書きうつしておこう】
『人生に意味を』
“知ぬられたスペイン”
ここでは木を伐るように銃殺する……
人びとはもはやたがいに尊敬しあうことはない
死がそれ自身悲劇的なものでないことはよくわかっている。
あたり一面のあざやかな緑をまえにして、むかし街道をはずれたところで目にした、プロヴァンスの村の風景を思いだした。
風が弔鐘のひびきをはこんできた。
あわれな老婆と大地との婚約を告げしらせるひびきを耳にして、
わたしは大きなやすらぎを覚えた。
古来詩人にひきくらべられる美しい歌い手の蝉と花々とを縫いこんだ、至福の天衣につつまれて、明日、老婆ははじめて眠りにつくのだ。
渡辺一民訳
「はじめて眠りにつく」という言葉に着目し
その意味することを深く考えて欲しい・・・
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