戦争に反対する理由を問われて
「戦争は本を焼くから いけない」
そう簡潔に言い切ったのが
W.ブレイクとダンテ研究者で和紙研究家
柳宗悦の親しい友人でもある
書誌学者の寿岳文章だった
いま この国にこれほど深く屹立した言葉を
サラッと吐ける知識人がひとりでもいるだろうか
見渡しても
いわゆる「炎上」を怖れて右顧左眄と
迎合を重ねるオ優シイ「大衆知識人」しかいない/笑。
雑誌『情況』最新号は「キャンセルカルチャー」と
「プーチンの戦争を止めろ!」の二特集
もちろん両方とも決して読んだりはしない/笑。
そんなことより『傘がない』ぢゃないけど
潰れないまでも いつも閑散としていて
それが美点だった神保町「さぼうる」が
知らない間に老舗名店になり
昨今は
入店に行列するのが当たり前だとか/笑。
私見では
キャンセルカルチャーと行列文化には強烈な
一卵性双生児のような酷似性がある/笑。
過剰消毒された社会に起きる現象が羊の「行列文化」なら
その隠微な反作用が
「糾弾排斥文化/cancel culture」だ
なぜ酷似しているかというと
情緒 感傷 感情を中核に据えたある種「打算」が
陰険に機能している点だ
なぜそうなるのか そうなったのだろうか
端的に云えば それは「自分のアタマでは考えない」
洗脳教育を子どもの頃から今に至るまで
ほぼ生涯にわたって「甘受」してきたからだ 。。
同調圧力を教え込むのは学校だけでなく新聞TV雑誌など
あらゆるメディアが
感傷的情緒的な「非理性感情」を植え付ける
近年における典型が「日本すごい」「ニッポンチャチャチャ」だ
ネトウヨetc.に見られる現象はまさに「白痴の発狂」。。
ながい間 バカは発狂しないと信じられてきたが
なった/笑。「バカなキチガイ」はどうしても
「発狂した馬鹿」とおなじ精神構造を持つ
つまり「考えつづける」ことは精神的に中腰を続ける
ことだから かなり苦痛をともなう作業なのだが
陰謀論者はタマタマ与えられた結論によって「楽になる」
(考えあぐねた時は一旦休めばいいのだが
バカはその知恵もなく結論だけを急ぐ/笑。)
陰謀論は暴力的な「糾弾排斥文化」そのものであり
行列文化の異母兄弟であることは否めない
・
魯迅の発表から100年も遅れた阿Qの「精神勝利法」が
認識するしないに関わらず日本人に瀰漫している
幼稚園から椅子取り競争をさせながら
小学校以降は
「自由」「平等」だ 「民主」だ「選挙」だと
明らかな嘘を建前として教え込む
日本人のほとんどはソフトに精神分裂/攪乱した狂人だ/笑。
しかも
それぞれ自分のアタマでは考えなくても 他人の意見には
違和感を持ち 腹を立て あるいは対立する
感情と感傷性情緒性だけは掃いて捨てるほどある/笑。
暴走族とヤンキーが時間とともにソフト化し「ソフヤン」
になったように 病的なクレーマーが大衆化/軟弱化して
日本では情緒的「キャンセルカルチャー」層になると云える
教育はあっても生涯貧しかった親を反面教師として
ポストヒッピー の「ヤッピー」(ネットは誤情報が多い)
が生まれ 彼らが現在は新反動主義と暗黒啓蒙の深部を
形成しているとの「説」と重ね合わせると興味深い
・
白々しくそれらしいことを言ったヤツに対する嫉妬もあるだろう
そして徒党を組むのが大好きで できれば多数派でありたい
炎上とキャンセル文化を現代日本で誘発しているのは
ソレだ その情緒的で感傷的な打算と感情だ/笑。
それにしても
まるで60年代の亡霊が現れたかのように
『情況』と『世界』が打算良心的に「解説」を施す
「死んだはずだよ お富さん」ぢゃなかったのか /笑。
(これらの号はすぐ売り切れ増刷決定)
ぼくはこの『情況』と『世界』の併走に
良心の皮を被った商業主義というより
「行列文化の精髄」をみる
「行列文化」の見事な高学歴サンプルをみる/笑。
・
ヒトそれぞれのランクでそれらしいグループに入る
キューバ危機があった1962年に書かれ
ケネディ暗殺の1963年に出版されたカート ヴォネガット の傑作
『猫のゆりかご』における
ボコノン教「カラース」における「集団性」は
ヌッポンでも今後 重要性を増すだろう
しかししかししかし
ヴォネガット 思想の中心にあるのは
たとえ狂ったとしても 願わくば
「黙って生き 黙って死んでいこう」
ではないのかと
ぼくは閑かに考えている
明らかに狂気を孕んだ素描の数々
カートヴォネガット 唯一の素描集である
『Kurt Vonnegut Drawings』を 眺めながら
人類と狂気の関係 あるいは
佯狂と集団発狂を含む各種各レベルの
狂気について
ゆっくり考えつづけている 。。