《「もしPならば 、あるいはQである」という文が存在しないという事実は、その言語全体に関しての 、、、 》
チョムスキーの『我々はどのような生き物なのか』の一節にあった
この高度で良質なナンセンスのような「存在しない文言」が 妙に気に入ってしまった / 笑。
もうすこし詳しく説明すると 彼は後段でこうも述べている
《 些細な実験を一つやれば、問題のプロセスが無限を含んでいることが示せます。例えば命題PとQがあるとき、
「もしPならば、Q」は文だが、「もしPならば、あるいはQ」は文ではない。これで終わりです。》
脳蓋のなかで
新しい玩具に夢中になった幼児のように「いふぴー おあ きゅー」を繰り返し弄んでいると
すこしばかり困った事実に気付いてしまった
英語では「存在できない」文であっても もしかすると日本語では成立可能ではないのか 。。。
例文をあげよう
《 もし暴動ならば あるいは内戦である 》
《 もし内戦ならば あるいは革命である 》
《 もし意識革命なら あるいは文化革命である 》
仮にパーソナル・コンピューターの開発普及にかんして
《 もし産業革命ならば あるいは文化革命である 》
これらの例文にそれほど強い違和感はない
《 もし死んだのなら あるいは自殺である 》
もう日本語としては間違いとはいえない水準だ
私見では 主語を省略できるように
日本語の曖昧さを許す(意識)構造により 本来の「If P , or Q」が
if がもうひとつ隠れて挿入された状態「If P , or (if) Q」 または 読点が句点として独立した「If P . or Q .」
要するに「 If P . or if Q . 」として
《 もしかすると自殺。 あるいは事故死だ。 》のように扱われる
言語として 日本語の 情緒を優先して論理に乏しい傾向は それを許容する柔弱さが意識深部にあり
ニッポン人の多くにみられる没論理の精神構造あるいは非合理な思考の背景となっている
曖昧な言語感覚と非論理的で蒙昧な国民性は数千年単位の極めて「自然な組み合わせ」だ
「天然の暗愚」という言葉が浮かんだ
それは必ずしも西洋/欧米の言語と精神構造 社会と文化の真性の優越を意味しないが
森有正や永井荘吉の彼我との懸隔径庭にかんする憂慮煩悶を連想する
背骨の曲がったひとに まっすぐ美しく歩けといっても無理かもしれない
もし誤解ならば あるいは歪曲だとしても 。。。/ 笑。
ノーム・チョムスキー あるいは井筒俊彦に学ぶ 深い「コトバ」
たった数語をアタマのなかで転がしているだけで ぼくは数日のあいだ愉しかった
☆ ☆ ☆
チョムスキーの「言語の発生」にかんする極めて美しい(故に真理とおもわれる)仮説を 記録しておこう
《 ですから、言語の設計は完璧であったのでしょう。それはただ自然法則に従って起こったことなのです。雪片が形作られるのと同じような
仕方で作られたのです。雪片は入り組んだ設計で作られていますが、そこにはいかなる選択的効果もありません。
単に物理学が決定した通りに作られているのです。おそらくこのことは言語についても成り立ちます。例えばおよそ七万五〇〇〇年前に、
一人の人間において ------ 一人の人間において、というのは、突然変異はもちろん個体内で生じるからです ----- 起こったであろうことは、
おそらく脳内のほんのわずかな再配線であり、その再配線が(自然なこととして、最も単純な形の)併合を産み出し、そのことが、
限界がない創造的な思考のための基盤を直ちにもたらしたのです。そしてその変化は、ちょうどその時期に考古学的記録に姿を現した、「大躍進」と
しばしば考古学者によって呼ばれる活動の基盤となったのです。この変化は、現生人類をその祖先から、
そして、動物界における他のあらゆる生物から区別する驚くべき相違を生じさせました。この推測が妥当性を保つ限りにおいて、
言語が最適な設計を示すように見えるという問題に対する答えを得ることが出来るでしょう。
なぜ言語が最適設計を示すという予想が成り立つのでしょうか。
言語が発生したときに存在していたであろう状況の下ではまさにそのことが予想されることだからです。
何の選択圧も他の圧力も働いていなかったのですから、出現しようとしているシステムは単に自然法則に従って
----- この場合は「最小計算」の原理に従って ----- 生じた、ということなのです。ちょうど雪片の形成が自然法則に従って成されるのと同じです。》
ノーム・チョムスキー『我々はどのような生き物なのか / ソフィア・レクチャーズ』福井直樹・辻子美保子 編訳 より