辛辣な茶番劇 。。。 「逆」集団就職としての「集団無職列車」を攻究する。
崩壊する国家を象徴するようなインストゥルメンタル『君が代』
そのあと演奏される
熱と癖のある名唱『達者でナ』
矢野顕子 一九七六年のライブアルバム『長月 神無月』 はヘヴィーローテーションした愛聴盤だ
二一歳の彼女がどのような気持ちでこの古い大衆歌謡を歌ったか 不明だが
当時 ライブレコーディングされた この楽曲を聴くかぎり
都会に売られて行く若駒と 馬を思う 育て親 の姿 だけが浮かんでいた
しかし
三橋美智也の『達者でナ』(1960年)が
馬に仮託しているが
本当のテーマは 集団就職していった子どもたち を思う親ごころ であることに 気づいたのは
ごく最近のこと
今日は買われてヨー 町へ行く
オーラ オーラ 達者でな
オーラ オーラ 風邪ひくな
離す手綱が ふるえふるえるぜ
町のお人はヨー よい人だろが
変る暮しがヨー 気にかかる
オーラ オーラ 達者でな
オーラ オーラ また逢おな
かわいたてがみ なでてなでてやろ
一九六〇年 昭和三五年段階で 札幌を別として 馬を必要とする都市が 日本にあっただろうか。。。
この歌で もっとも注目すべきは 「買われてヨー 町に行く」と
「町のお人はヨー よい人だろが 変る暮しがヨー 気にかかる」 だ
このイエ制度 ムラ制度の琴線にふれる微妙な二箇所には
金の卵と呼ばれた 若者たちの往時の実相と実感がリアリスティックに描き込まれている
。。。。
さて
ある世代が いま途方に暮れている
学校は出たものの 就職先のない現実に直面して
子どもにも 戻れず おとなにもなれず
みんなで乗るはずだった グリーン車が こないまま
いや 大衆化した大学院に象徴される 行く先不明の「集団無職列車」に乗り込んだまま
祖父母の世代とは逆方向へ走る 環境の良い特別迂回列車
「タク壷」化した個室で 着くはずのない 到着駅を待っている
ポスドクは 運 根 尽きた 三代目
いわば
日本人は 集団就職の時代から ほぼ三世代かけて タク壷ヒッキーと集団無職の状況を迎えた ことになる
無産階級と准無産階級にとって
勤勉より 高学歴だけが富と名声と幸福をもたらすと信じ 五〇数年
歴史は 皮肉すぎる残酷で滑稽な茶番劇として 繰り返したのか
集団就職列車に 希望と不安を抱えながら乗ったのは 十五か十六歳の諸氏諸嬢だった
いつも思うことがある
幕末の生まれとはいえ
岡倉覚三天心が 東京帝国大学を卒業したのは 十七歳のとき
明治の子
広田不孤斎が 丁稚として古美術商に奉公したのは 十二歳のときだった
三〇歳になっても 手に職も 売れる技術もない集団無職世代
厳しく見れば
幼稚園児とあまり変わらない保育コースに 二〇年も通わせる現代の教育産業界
モラルも見通しも 全くない 文部科学省が創りだした
許認可された「公教育」と呼ばれる 利権だらけの「巨大サービス産業」
子どもと若者の活きいきとした人生を奪ってきた【廃人養成システム】は いったい誰のためにあるのか
このテーマは 重い あまりにも重く愚劣だ 。。。
集団就職が盛んになる頃 売春防止法により廃止された赤線青線
ほど近い 秋葉原と吉原
AKB48 を 花魁の二一世紀的生まれ変わりとし
「横位置の花魁道中」として論じてみたい気もしたが
AKB48に積極的な関心の持てない ぼくの任ではない 誰かがやるだろう / 笑。
ただし
『達者でナ』が集団就職の時代を 彩ったように
「集団無職列車」の時代 を象徴する歌曲として AKB48 『永遠プレッシャー』を挙げよう
私に期待しないで
生き方が 上手じゃないの
これこそ ポスドク世代の 哀しい(ほど真に迫った)テーマソングだろう