中江丑吉のこと その他のこと 。。

鈴木正 『戦後思想史の探究 思想家論集』読み始める

    巻頭に置かれた[ 論考編 「個のなかの普遍者一一中江丑吉論」]

  最初の数行で ギュッと「ガイスト」を掴まれ 震える思い

 《 机上にある二冊の本 一一 『狩野亮吉遺文集』と『中江丑吉書簡集』は、私の精神のもっとも深部にまで入りこ

  んだ書物である。ともに昭和一七年にこの世を去ったが、彼らは本質的に共通したところがみとめられる。中江

  の『中国古代政治思想』をふくめて、そのどれ一つも生前のものはない。存命中、彼らは一冊の本も公にしなか

 

  った。写真をとられるのを嫌った狩野の人となりについては、小林勇氏が温かい筆致で伝えたことがあるが、それ

  はおそらく自叙伝をのこさなかった兆民と同質のものであろう。一見古めかしいが、沈黙と節度を失い自己宣伝

  と露出に走る今日、その方がむしろ人間的な奥ゆかしさを感じさせる。中江丑吉(一八八九〜一九四二)もいわ

  ゆるパブリシティを大変嫌って、ジャーナリズムにその名がでるのを極端に嫌悪し、そのため自己の研究成果す

  ら公刊せず、わずか一〇〇部内外の私刊本として友人知己に配るにとどめた。平生、ジャーナリズムに踊らされ

  ることを警戒していた彼は、友人の鈴江言一が生活のため、『改造』などに中国関係の政治評論を売文している

  ことを特に心配して、一日も早く定収入の道を定めるよう気を配っていた。そんなわけで彼のことを生前に書く

  などは到底許されることではなかった。昭和一〇年、嘉治隆一氏が兆民の『一年有半』を岩波文庫にいれたとき、

  つけた「兆民小伝」の末尾に、

    「嗣子丑吉東京大学法科を卒へて、遠く支那北平に走り、淹/トドマること凡そ二十年、研鑽頗る務め、克く先考の

    衣鉢を伝ふ、後ありと云ふべきである。」

  とあるのが唯一の例外だろう。》            同書[ 一 明治の精神と現代 ]より

中江丑吉といえば 随分むかし 

 新宿御苑の横にあった庄司洸さんの酒場「韃靼 / だったん」で

  鶴見良行さんが 恭敬の念を最大に滲ませながら 

   「中江丑吉はすごいなぁ、、、」 歎息とともに真摯に語っていたのを憶えている

そのとき 良行さんと一緒に居たのは 誰だったろう 

     吉川勇一さんや 武藤一羊さんだったような気もするし 小野二郎さんだったかもしれない

        あるいは 高橋武智さんとか 高畠通敏さん だったのか 。。。。

 あれは 

   七〇年代おわり あるいは八〇年代はじめだった 。。。。。

      あの時代の知識人には 

  子ども時代や思春期に 戦争/空襲や 敗戦による内面の劇変があったため か

     フランクで独特な優しさと屈折を伴う柔軟な「背中」を持つひとが多かった

  ( 昨今は どれほど学校に通おうと「おとな」にも「学者」にもなれない 

    餓鬼めいた露出・宣伝と自己陶酔だけの不純な人びとの群れが アカデミズムを僭称する )

 それにしても 多くの友人と知己 先賢たちが鬼籍に入った

   八〇年代初頭に 五〇を少し超えただけの小野二郎氏が亡くなり

      良行さんも 庄司さんもいない 戸井十月も 五味正彦さんも 、、、

             『頑是ない歌』ではないが

           おもえば 遠くへきたものよ 。。。

 そういえば デカダンスとモダニティともに持ち

     一九二〇年代に『生活の芸術』を揚言した 周作人

 周作人と中江丑吉は それぞれ一八八五年と一八八九年の生まれだから

   ほとんど同時代を生きたといって良い

    ぼくの認識では この二人は どこか似ている

        というより

 無意識にまで及ぶ 複雑な神経系の方程式が似ている

    世間に向き合う姿勢とスタンス 丹田のありよう

      つまり精神の深奥を裏切らない 感受性 官能 智覚 をもって生きた

          ふたりと

 世界文明の行く末など軽く思惟しながら ゆるゆると晩年を過ごそうか とも惟う 。。。

                 ・

        ふたりのしたことは 仮に遁世や隠遁に見えても

               韜晦ではない 

      逃げることなく 心魂の深部と対話して 醇正に生きたのだ