湯水雲霧雨河川海氷山悉皆輪廻フラクタル
ゆみずくも きりあめかせん うみひょうざん しっかいりんね ふらくたる
※ 二一世紀の名号として ※
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上村忠男 訳 マッシモ・カッチャーリ『死後に生きる者たち』
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副題は 「〈オーストリアの終焉〉前後のウィーン展望 」
《 『論考』の最初の命題は、こう訳すことができるだろう。「世界は可能なものすべての領域のうちか
ら偶然によってなされる選択の結果である」(ロッソ)と。したがって、言表可能なものは、絶対的に
偶然的=暫定的なものにすぎない。「科学はまさしく偶然的なものについての研究であることが明ら
かとなる」(ロッソ)。存在者はどれもみな根拠のないものであるから、科学にとって、存在者のヒエ
ラルキーは存在しない。命題の意味内容は選定されたものである。ひいては、暫定的なもの=これと
いった理由のないもの=偶然的なものである。だが、それでは意味それ自体も偶然的なものなのだろ
うか。この問いのまわりを『論考』は経めぐっており、そしてそこに立ち止まっている。ウィトゲン
シュタインは、科学的命題を、その対象の根本的な偶然性から引き離そうとする。かれは、論理学的
な基礎づけの道が遮断され、途絶しているのに気づく。そしてそこからひとつの存在論をこころみる。
いわく、世界という実体が存在する。それはもうそれ以上分解できないものであって、あらゆる命題
はその実体の関数である。世界は偶然的な形状をしているが、偶然的ではない単純な事物からなって
いる。したがって、科学の提示するもろもろの像は、形状の偶然性だけでなく、もろもろの事物の実
体性、もしくは形状の基礎に存在しているもろもろの単純な存在の実体性をも含んでいる。『論考』
独特の形状認識あるいは意味の理論は基礎づけ(Begrundung)を存在論的な問題にするのである。
しかし、この存在論的な実在論は、真理の独立した不変の実在の肯定が遭遇するアポリア、すなわ
ち真と偽はわたしたちの認識から独立して存在しているという信念が遭遇するアポリアを、ほんとう
にまぬかれているのだろうか。『論考』の存在論的な基礎づけは、それがうまく行くためには、命題
をなす各名辞が、わたしたちの目の前にあるものども(Gegen-stande)にではなく、単純な事物に
還元されることをみとめなければならないだろう。 》
《 言い表わしうるものはこのみずからの限界を執拗に攻め立てるが、どんなに攻め立ててもみてもそれに
穴をあけることはできない。
この推論の道をとおってもまた、どれほど神秘的なもの(das Mystische)が『論考』の漠然とし
た雰囲気ではなく、それの必然的な帰結を構成しているかをうかがい知ることができる。神秘的なも
のは、そこでつぎつぎに生起する命題の意味の限界を記述する。いやそれどころか、それは命題に内
在する法則である。命題が作用するさいの規則、禁令、条件を命題に課すのである。神秘的なものは、
どのように世界が単純に自己を提示するかを指し示す。「世界が現実に存在するがままにしておこう
ではないか。可能なものの可能性が与えられるままにしておこうではないか」(ロッソ)。これが神秘
的なものである。 》
『死後に生きる者たち』 [ 安んじることのないわたしたちの心 ]より