憂き我をさびしがらせよ 

夜は雷鳴に睡り

  朝は郭公に目醒める

    (それは一万年年前と変わらぬ響き)

      閑古閑古の啼き声を聴きながら

 「井筒俊彦英文著作翻訳コレクション」第一回配本

    古勝隆一 訳『老子道徳経』読む 。。

      (二千五百年前よりの伝言)

        何度読んでも荘子老子はその度に 

          異貌を顕す

      今日は第五章

       「天地不仁 以萬物為芻狗 聖人不仁 以百姓為芻狗」

    《 天と地は、仁ではない。それらは万物を藁の犬のように遇する。

                    聖人は仁ではない。かの人は人々を藁の犬のように遇する。》 

 

               不仁と芻狗に

                   とりわけ

                  感興をおぼえる 

                 天地も聖人も仁ではないトハ

                いわば 

               孔子儒教への批判を内包する

             それが心に沁みる

           放射能汚染が拡がり 聖人はおろか

         賢人もいないこの国で

        わらの犬以下の扱いを受けている

          テレビ漬けの犬ならぬ

            この国の 

             水狗のごとき蒼氓

              自ら望んで騙されつづける

                自虐的な二重三重の奴隷の群れ

                 社畜国畜の無思慮な民草を憐れむゆえか

                   。。。

              そういえば

                外仁斎と号した時期がある

                  印が先か斎号がさきか

                判然としないが

             銀座鳩居堂に「外仁」と彫られた陶製の印があり 

           ともに摘みが狛犬

         同じ作者の手になる

       老荘的な「虎が人を襲う」図の遊印もあり

                                  巨大な妖怪にもみえる縞模様の猛獣

          その捻くれた諧謔的な趣味に波長が合い

            画室印のつもりで押していた時期がある

          それにしても

       鳩居堂に何故 その小さな陶印があり 

     あの広い店内で偶然 目に触れ 二つを購入したのか  

       「偶然こそ神聖である」

          とは色川武大さんの言葉だったが

            この世は不思議なことに満ちている 。。

      

 

      

 

        「 憂き我をさびしがらせよ閑古鳥 」芭蕉