蒐集する遊歩者 として 。。。ベンヤミンを読み続ける
一九六九年のこと
小野二郎 中村勝哉 津野海太郎 平野甲賀 、、、彼らは皆 若く働き盛りで
小さな晶文社そのものが 瑞々しい「時代の精神/街の気分」を発散していた
権威主義が透ける岩波書店からも『パサージュ論』Ⅰ〜Ⅴが一九九三年より
リベラルさ を標榜する安江良介が社長だったとはいえ
もはや岩波は権威の種をまく「戦後民主主義」の老いたブランドに過ぎなかった
その第一次『パサージュ論』を集中的に読んだのは
完結した一九九五年の夏から秋にかけてだった 。。。
あの頃からでも すでに二〇年を閲した
先日から スーザン・バック=モース『ベンヤミンとパサージュ論 / 見ることの弁証法』
溢れる脳内麻薬とともに陶酔している / 笑。
四八歳で自死した
ヴァルター・ベンヤミンに対するある種の「友情」は
四〇年を超え
間歇泉のように あるいは遊歩者/フラヌール的に 老境になっても継続する
ふと
そう思った
ふたつの遊歩する白日夢は 意識と無意識の「あわい/釁隙」で交差 通底している
深い部分で睡ることのできる資質 指先から神秘を醸す能力を持つ
ふたり
そこにあるのは 風土風水と星座/コンステレーションの違いのみだ
つげ義春にとっては
河原と温泉が 絢爛たるパサージュだったのだ
それにしても「釁:きん・ちぬる」とは不思議なことばだ
釁られた星座
雷鳴のあと ベンヤミンをぼんやり 惟う