『老子の講義』諸橋轍次 著
過日、新倉俊一の『詩人たちの世紀 / 西脇順三郎とエズラ・パウンド』を読んでいると、晩年の西脇がこの本で老子に親炙したことが書いてあり、何だか嬉しいような微笑ましいような感覚に包まれた事を憶えている。
著者は言うまでもなく、あの諸橋『大漢和辞典』の博士であり、
百歳まで生きた長寿長命、真に摂生の高徳の士でもあった。
偶々開いたところ(笑)【第五十章】から解説文を引用してみよう。
[出生入死。生之徒十有三。死之徒十有三‥‥‥]
《これは、無欲無心にして、死生に執着することのない人が、最も正しい摂生家であることを述べたものである。
人間は生まれ出て死に入るものであるが、その一生の中に、やり方によって当然生きて行ける筈の徳が十分の三あり、当然死すべき徳が十分の三ある。それから元来は生くべき筈の者であるが、下手な動きをすれば死に赴く徳が、また残りの十分の三ある。では、どうして生くべき者が死ぬかというと、それは何とかして人生を生かそうとする執着が厚くあり過ぎるためである。聞くところによれば、真の摂生家(生きようという考えを持たぬ者)は、山道を歩いていても野牛や虎などの猛獣の害に遇わず、兵士となって従軍する場合も、兜や武器で身を固めることがない。すなわち、真に生を摂する者に対しては、野牛も角を突きかける余地がなく、虎も爪をかける余地がなく、叉いかなる名刀でもその刃をさし込む余地がないという。何故ならば、初めから生きようと思わぬ人間には、死の入りこむ余地が全くないからである。》
↓命より文字と言葉の方が大事である(笑) 『大漢和辞典』の序文をどうぞ。