死の直前までサミュエル・ベケットはオスカー・ワイルドを読んでいた。
終の棲家となった医療付き養老院 ル・ティエール・タンで。
ジェイムズ・ノウルソンの『ベケット伝』最終章にはこう書かれている。
「館の裏側に隣接するユニットバス付きのくすんだ黄褐色の個室に、ベケットはいた。部屋は、ベッド、その脇の小机、たんす、それから読みかけの本(オスカー・ワイルド、ノラ・ジョイスの伝記とカフカを少しばかり)を並べた本棚、自分で買った小型の茶色い冷蔵庫という簡素なものだった。窓際には小さな書き物机が置いてあり、そこでベケットは手紙の返事を書いた。」
J.L.ボルヘスは叢書『バベルの図書館』6)ワイルド集の序文でこう述べている。
「他の著作家たちが深遠そうに見せようと努力するのとは違って ワイルドは
ハイネと同様、本質的に浮薄であったし
またそう見せようと努力していた。」
「ワイルドはたいへん優雅で逞しい
確信をもった人物であった。」
複雑にしてこの上なくシンプルな人物。
彼ワイルドは
ボルヘス同様に
本物の しかも偉大な魔法使いだった。
だからこそこんな言葉を残した。
「シゼンハ ゲイジュツ ヲ モホウスル。」
逆ではない。
世界の上に君臨するのが真の藝術なのだ。
この指摘だけでも彼は偉大であり
不朽の名誉をもち
不滅であり続けるだろう。
また、アンドレ・ジッドには
こう語っている。
「ぼくは楽園の暗黒部分を知りたかったのだ。」
と。
つまり彼は楽園に生きていた。
傍目にはどんなに地獄的に見えようとも。
O・ワイルド『アーサー・サヴィル卿の犯罪」
矢川澄子・小野協一訳
国書刊行会・刊
悼・矢川澄子氏
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