尾竹紅吉/富本一枝と『青鞜』その後。

僅か17歳で 青鞜の編集に加わり紅吉を名乗った一枝は早熟で才能あふれる日本画家でもあった。

やがて芸術家同士の結婚。

二人の大正4年から大正15年までの安堵村での暮らしを偲ばせるこんな文章が憲吉の著書『窯辺雑記』中にある。

「なるべく安価にして模様なき只温き衣を幼児に買ふとて我等思ひまどふ。安価なるを望むは貧しき故にして、模様無からむと望むは日常模様を以て座右を廻らす我等がその模様の凡てを好まざればなり。」

                〈工房にて〉より。

 

長くつ下のピッピ』ならぬ 青い靴下/青鞜

「新しい女」だった 紅吉/一枝は

画一的な学校教育を嫌って 

長女 陽と 次女 陶に

家庭教師をつけ自宅で養育した。

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後年 量産できる憲吉デザインの焼き物の頒布会などをしたのも 安堵での若い頃の経験から 優れた質と実用の美を持った品物を比較的安価に 手に入るようにしたいとの想いからだったろう。

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安堵村で 一枝は憲吉の陶芸への良きアドバイザァーでもあった。

晩年 憲吉は あの安堵村時代が貧しくはあったが 最も充実し愉しかったと 回想している。

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志村ふくみさんの『一色一生』に

 

白磁の大壺  富本憲吉夫人一枝さんのこと》という文章がある。

貴重な証言だから 一部を書き写そう。

〈あふれるような黒髪を、ゆたかに結い上げ、唐桟の着物に、濃い臙脂の半えりをわずかにのぞかせ、帯は思い切り下めに、幅広くざっくりと締めて、大輪の花がゆらぐようだった。

陶芸家、富本憲吉夫人一枝さんはその頃四十をすこし越えた位だったろうか。

その昔、尾竹紅吉といって、青鞜社の婦人運動の先駆をなした頃の面影を充分にのこしていられた。

一、二月の寒い季節で、婦人は白磁の大壺に臘梅を活けていられた。

その頃、十七,八だった初対面の私をみるなり、

「まあ、お母様そっくり」と声をあげられ、

まず驚いたのは私だった。

なぜなら夫人は、私の母にまだ一度も会ったことはなかったからである。 〉

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人生とは縁と不思議なことの連続であるのかもしれない。