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クロッキー的 雑嚢 : 『永続敗戦論』 高橋たか子 ミルチャ・エリアーデ のことなど 。。。。

背嚢はバックパック 

  で

 雑嚢とは 

頭陀袋や合切袋 あるいは バーキンの たぐい

   英国人女優 J・バーキンが お襁褓を 入れやすいようにと

      馬具工房だったエルメスが謹製したそうだから

 バーキンのバッグは 

       嬰児用の糞掃衣を容れる 馬頭観音ならぬフランス頭陀袋

  閑話休題 

           そー云えば

  いわゆる「死語」 あまり使われなくなった言葉に惹かれる

クロッキー」も その仲間

  (「エスキース」「エチュード」も あまり使われていない、、)

  流行語は 

      愚鈍で凡庸なグーミンの

乱暴で貪婪な 唾液と こころの手垢にまみれて 厭な匂いを放つが 

   死語は 

      干からびて 砂漠のように清潔だ / 笑。

         ところで 

 白井聡さんの『永続敗戦論 / 戦後日本の核心』を 読みおえた

 今この国に生きる 知性あるものすべてにとって 

     必読の名著といって良い

   図書館本で読んだが 持っていたいので 改めて購入するつもり

白井さんは1977年生まれだから 

 都築響一 宮台信司より 二〇歳ちかく若く 

 若松英輔 安藤礼二より一〇歳くらい下の まだ三〇代 

     こういう 本質的に怜悧 優秀なひとが 現代日本の本質を衝いた本を書いてくれると 

 

             ほんとに嬉しい

              ☆

 高橋たか子さんが ある時期 フランスの修道院にいたことは 

なんとなく知っていた

  彼女が昨年 日本で亡くなり

遺著『終りの日々』が図書館にあったので手にした

 束を出すためか 厚手の紙を用いて 大きめの文字で ユルユルに組んである

      中はスカスカ 

自分では信仰心篤い 知識人の端くれだと信じてやまない人物の

    顕示と自讃に終始する 哀しい記録

  二〇〇九年 二月十六日(月)

《 そうなのだ、私って、これらのエッセイに見られるとおり、存在の全・感覚で、生きていた。特

 に、日本の外では。なぜなら、日本的心性の者ではないので、日本を出るや、私の一切が、見える

 もの・聞こえるものへと、具体的に向けられ、そこから、沢山の何かを掴み取る! そうであった

 私。 》

 較べては可哀相だが

  晩年のメイ・サートンが獲得した心境と なんという違いか

高橋さんは『独り居の日記』を 読まなかったのか

 さらに

これでは まったく スーザン・ソンタグにも及ばない

 ソンタグの癌による病辱での様子は

一人息子のでディヴィッド・リーフによる『死の海を泳いで / スーザン・ソンタグ最期の日々』に詳しい

『終りの日々』二〇一〇年  一月二十六日にこんな記述があった

ヘンリー・ジェイムズ、という名前を、しばらく前、ふいに思い出した。

 何かの本で、その人のことを読んで、どんな人かも知らぬまま、惹かれたのだった。ずっとずっ

 と昔のことだが。

  なぜ惹かれたのか? 深層へのアンテナを持つ人、と、直感したからだろう。

 スウェーデンボルグ(前述したように)などなど、私は若い頃から、そうであったのだ。》

 これは哀しいかな ヘンリー・ジェイムズではなく 小説家ヘンリーの一歳違いの兄 

 思想家 哲学者で『宗教的経験の諸相』を書いた ウィリアムとの混同による 勘違い

   文脈上 スウェーデンボルグとの連関で導かれるのは 

     ウィリアム・ジェームズ でしかない

 酷いようだが 高橋さんは死ぬまで ヘンリーとジェームズを

      精神性そのものを「誤解」していたのだ

         もちろん C・.S・パースなど知る由もない

 彼女にとって「神秘と知性」は そのような( 当人にとってはいざ知らず )

     客観的には まったく深まることない

         勘違いだらけの

    一種の上等な知的アクセサリーに すぎなかった 

       この明かな「誤り」に対して 定本とする立場は 註釈が必要なはず

  解説者の鈴木晶氏も 編集者の尾方邦雄氏も そのことに気づいていない

      みすず書房には もはや校閲がないのか。。。。

 それなりに有名な翻訳者・大学教授 と 高名な編集者 

      知らないことは 調べて欲しい

         無知を誇ってはいけない

   哀しいほどの 知的レベル 精神性の衰亡ぶり がここにも顕現している / 笑。

結局 

   高橋たか子は「困ったちゃん」としての元・修道女を 八〇歳まで続けただけではなかったか

森有正にはもちろん

  一九一八年の渡仏以来 一九八〇年に没するまで 一度も日本に帰らなかった 

     偉大な版画家にして思索者だった 長谷川潔には 足元にも及ばなかった

 さて さて

 奥山史亮さんの『エリアーデの思想と亡命 / クリアーヌとの関係において』を読み終わりつつある

博士号学位申請論文をもとにした本だから 文章は生硬で回りくどい表現が多いが

とても勉強になったし 面白かった。 感謝したい

 たとえば こんな部分に

《 このような神話モチーフは、以下のような死の観念を前提にするとエリアーデは考える。

   死とは、普遍的生命の源泉とふたたび接触することである。われわれは、これと同じ基本的な考え方を地母親や農

   耕密議に関するあらゆる信仰のなかに確認することができる。死は、存在様式の変化、べつの存在地平への移行、

   宇宙の母胎への再統合にほかならない。もし実在と生命が、植物的表現形式で表現されるならば、宇宙的母胎への

   再統合は単なる形態の変容によって行なわれる。つまり死者は、人間の形態から樹木の形態になるのである。

   人間が植物の存在様式に移行することで再生するということは、生命の源泉がその植物に凝縮していることを前提と

   する。それは、人間は植物からのエネルギーが単に放射されただけの存在にすぎず、実在の基盤は人間にはなく、植物

   にこそ存するということをも意味している。そのため人間の生命が非業の死によって突如として中断された場合、生命

   は植物・花・実といったべつなかたちをとって生き延びようとする。生命は、植物を軸として循環すると考えられてい

   るのである。》      [ 第Ⅰ部 亡命者エリアーデの思想活動とエリアーデ宗教学 

                 第1章 ポルトガル滞在期におけるエリアーデの思想形成 ]より

《 既述のように、エリアーデ宗教学に関しては、現在、さまざまな批判がなされている。とくに現代

 世界に擬装された聖に関するエリアーデの主張に対しては、実証的な学問としては規範性が強すぎるとの指摘が数多く

 なされてきた。たとえば奥山倫明は、「私たちの時代にも、私たちの眼前でイニシエーション的現象はおそらく持続し

 ているのだが、べつの形態においてであって、〈俗なるもの〉のなかに充分に擬装されているので、私たちがそれをその

 ものとして認識することは不可能になっているのである」というエリアーデの叙述を、「俗に偽装された聖は、認識可

 能な者には聖なるものとして顕現するが、認識不可能な者には擬装されたままとなる」と受け取り、擬装の概念はエリ

 アーデが提示した方法論を採用する宗教学者以外の人間には認識し得ない聖の顕現を問題としているため「『宗教学』

 の枠を一歩、踏み出してゆくようにも思われる」と評している。》  

           [ 第Ⅱ部 第4章 エリアーデ文学をめぐるエリアーデとクリアーヌの対話 ]より

エリアーデは『回想』において、戦前の短編小説『蛇』と戦後の長編小説『妖精たちの夜』

 (仏訳タイトル『禁じられた森』)の連続性について、以下のように述べている。

 

   私はこの小説〔『蛇』〕を一九三七年春、晩一一時から午前三、四時まで、一〇夜ほどで書きあげた。〔中略〕。この本

   を構成する二〇〇頁のうち唯の一頁も私は読み直さなかったが、それでもこれは私の最良の作品のひとつである。

   しかしもうひとつの事実も重要である。私は蛇のシンボリズムに関する相当な量の民俗学民族学的資料を手もと

   にもっていたのに、それを参照することをしなかったのである。その労苦を惜しまなかったなら、『蛇』のシンボ

   リズムはもっと首尾の整ったものになっただろう。しかし、その場合には、文学的創意の方は多分の被害を蒙むる

   ことになったのではあるまいか。〔中略〕宗教史家としての私にはきわめて親しい主題であるにもかかわらず、私

   のうちなる作家は学者、象徴の解釈家との意識的な共同作業を一切拒んだのである。〔中略〕。『蛇』の経験は私に

   ふたつのことを納得させた。(1)理論的活動は意識的、意図的に文学的活動に影響することはできない。(2)文学

   的創造の自由な活動は、反対に若干の理論的意義を開示し得る。実際、出版後『蛇』を読み直してはじめて長いこ

   と、一九三二 〜 三三年の『独語集』以来、私の頭を占めてきた問題(これを体系的に十分に解明したのははるか後

   年、『概論』においてである)を、それと知らずに解決してしまったことを知ったのである。奇蹟の擬装、聖の世界

   への介入は常に一連の《歴史的形態》の下に擬装されている事実、外見上はほかの何百万の宇宙あるいは歴史の現

   象と異なることのない顕現(聖なる石は外見上はほかの石とは区別できない)が問題である。〔中略〕。『蛇』のこ

   の《発見》から、ふたつの道が分かれる。一方は『概論』と『シャーマニズム』を経て、まだ体系化されてはいな

   いが、《歴史への転落》に関する私の現在の仕事(『イメージとシンボル』ガリマール、一九五二年)に導かれる。他

   方は、純粋に文学的なもので、『天上の婚姻』と若干の中編(『巨人』等)をとおって、まだ未刊の長編『禁じられた

   森』へといたる。》  [ 第5章 エリアーデ文学における「精神」概念に関する考察 ]より

ビルスティクは、H市においてH教授という人物と出会い、エメラルドのコレクションを託される。そのエメラルド

 は不思議な力を有するもので、「大地の形成までさかのぼる無限の記憶が詰めこまれ」ており、それを所有した者は世

 界でおこった出来事やこれからおこるであろう出来事を正確に把握できるようになるという。ビルスティクは、このエ

 メラルドを所有することによって、自己と、過去における人間の記憶や出来事とが融合する体験をもった。

    私がそこで、つまり、大地の形成にまでさかのぼる無限の記憶がつめこまれたたくさんのエ

    メラルドの前で体験したことは、人びとが(誤って)「転生」とか「前世」とよぶものとは似ても似つかないもの

    だった。その体験において、私は個人として人類の歴史の存在のひとつを生きたのではなかった。そうではなく、

    人類の歴史が一気に示され、そこでは登場人物たちの区別は幻にすぎない。

    私は、毎週日曜日の決まった時間に大聖堂の扉口でコジモ・デ・メディチからお

    金を恵んでもらっていた盲目の翁だった。しかし同時に、私はコジモだった。コインだった。投げられたコインの

    軌跡だった。コインが通過する空気だった。扉口の石、石のひび割れ、祭壇、会衆、聖杯に向けられた司祭の視線、

    「これが主の躰である」という言葉、口に聖体を入れた少女、唾液、味、祈り、その少女の舌の樹状突起、彼女の

    右足のちょっとした横への動き、未知のみえざる力がいままさに響かせようとしている鐘の音の予感。私はこれら

    すべてだった。

     まるで貯蔵庫のなかをめぐり歩いているようだった。事実上無限の貯蔵庫のなかを。

    かつて世界でおこったことすべてに触れることができた、そんな貯蔵庫である。

    だがそこにいるときには、視線は消失する。なにかを認識したり記録したりで

    きるいかなるものももはや存在せず、視線もまたほかのおびただしい対象のうちのひとつでしかない。だから、私

    のその記憶は漠然としたものでしかなく、実のところまがい物にすぎない。

  人間が歴史上で行うあらゆる行動、思索、出来事は、「無限の貯蔵庫」に存在する記憶に基づいている。「登場人物

 たちの区別は幻にすぎない」、「かつて世界で起こったことすべてに触れることができた」という記述からは、その貯蔵

 庫においては、人間が歴史上で別個なものとして認識する経験が時間や空間に制約されることなく存在しており、認識

 の主体と客体の区別も撤廃されることが読み取れる。そのため貯蔵庫のなかを垣間みた者は、あらゆる時代・地域にほ

 かの人間が経験した記憶を体験することができるだけでなく、これからおこるであろう出来事に関する記憶を体験する

 こともできるという。ここでは明言されてはいないが、このような体験をもたらす力を有するエメラルドとは、クリ

 アーヌが「システム」とよぶ超次元的存在に参与できるようになるアイテムであると考えられる。『透明な羊皮紙』に

 収録されたそれぞれの物語は、このエメラルドやおそらくそれを所有したであろう人間をめぐってストーリーが展開する。》

 [ 第Ⅲ部 第7章 ルーマニア社会主義政権との闘争におけるエリアーデとクリアーヌ 

        第四節 クリアーヌの政治的言論と宗教理論  二 クリアーヌの短編小説における「システム」]より

                                ※ 傍点およびアルファベットによる表記は省いた

     エリアーデも凄いが ヨアン・ペトル・クリアーヌも素晴らしい感覚を持っている    Bravo!!!