過ぎゆく夏の「おとな考」 ……… 記憶する古い雑嚢として 。

八月になって

風の通る部屋で 

腹ばいになって

チャールズ・J・シールズ『人生なんて、そんなものさ / カート・ヴォネガットの生涯

   緩慢に 怠惰に 悪い夢でも見るように読むのが この夏 生まれた

        ひとつの習慣/habit

ぼくにとって

   カート・ヴォネガット・ジュニアは 

    懐かしいだけの存在ではない

      熱く燃え上がった

 

  世界中でおきた若者総反乱の季節が「敗北」に終わり

  虚脱感に苛まれた 二〇代と三〇代のころ 茫然自失し 食欲を喪った観念の主食

  老子荘子 マルクス・アウレリウス フィリップ・ K・ディックとならぶ 紙製の薬物 活字のオピウム

   いうならば

   若き日の 常用依存薬物

   爾来 四〇年を超えた今も 魂の嗜好品として

      脳内麻薬発生装置として

明るくニヒルな 虚空間における崩壊感覚+モダニティの慰問袋的師匠だったから

『カートヴォネガットの生涯』が微に入り細にわたって暴露する 

彼の不運と幸運の入り混じった人生 彼の身勝手さや いい加減さ

三人プラス三人 六人の子を育てた 優れた伴侶ジェインとの別居

  ヲンナ癖と云うより 女を見る目のなさ ヲンナ運の悪さ 再婚と養子のもたらす災厄

      などなど など

  厳しく辛辣な評伝は 

     カートの 経済事情や性的な面 鬱陶しいほどの生臭さを 伝えて

       幻滅と云うより 哀しいほどの漏泄露呈 剔抉性があり

     空蝉の声より 岩ならぬ 六〇歳の現身に染みた 。。。/ 笑。

  (彼自身も認めているように カートは長生きしすぎた のだろうか、、、)

                ☆ ☆ ☆

   きのうは

秋艸道人 會津八一墨蹟』箱入 全三冊 

               手渡しで重重しく 届く

     筺から出し テーブルブックとして 齊白石 etc. と 並べる 

おおきなウォールナットのローテーブルに載る BEUYS  齊白石   ON KAWARA  會津八一

      ぼくは 二一世紀の 新しいおとなに なろうとしている

  この夏 懶惰に読んでいた のは

伊藤徳也『「生活の芸術」と周作人 / 中国のデカダンス=モダニティ』

永堀祐造『魯迅トロツキー / 中国における「文学と革命」』

   周作人は 林語堂 周仏海 章炳麟などとともに 

前から読みたいと思っていたから

木山英雄 編訳 周作人『日本談義集』東洋文庫 と併読している

  現在この国が 置かれている状況を考えるうえで

一九二〇年代 三〇年代の中国と中国知識人の考え方 生き方は

   深い黙示 誠実な諷喩になるのではないか

現在の 日本は 「解放前の中国」に 酷似している

    紛れもなく 萎靡廃頽した 植民地 

そして 

  当時の中国より「おとな」がいない。

いま この国にいるのは 子供じみた老人と 背伸びした子どもたち だけだ。。。

  新聞とTV  週刊誌が おとなを 殺した。 殺戮しつづけている。。。

              ・  ・  ・

おとなが いつまでも小説を読んでいて どうする

   子どもや若者なら いざ知らず

   五〇歳も六〇歳もすぎて 村上春樹大江健三郎の紙芝居なんて 

          読んでて 気恥ずかしくないか /笑。

小説は 小人の説にすぎない と自ら喝破したのは 夷齋こと石川淳だった 。。。