四〇年前の 黒い帽子 。

大戦間期の宮中と政治家黒沢文貴 

著者の責ではないが 索漠暗澹と 読み終わる

《 長州閥の実力者である田中義一陸軍大将が、政友会総裁に就任した大正末期は、治安維持法とセ

 ットとはいえ普通選挙法が成立し、また政権交代のルールとして「憲政の常道」が叫ばれるなど、

 政党総裁による政権獲得の可能性が、戦前においてもっとも高まった時期にあたる。》

《 さて、彼の軍人生活の第一の転機は、日露戦争であった。開戦前の約四年間、当時世界一の陸軍

 国と謳われたロシア軍の調査研究のためロシアに派遣され、日本軍将校初の隊付としてロシア軍隊

 の実情を熟知していた田中は、児玉源太郎総参謀長のもとで満州軍の作戦参謀として活躍した。

  そこで日露両軍の実態をつぶさに体験した田中は、将来の戦争への強い危機感を抱くことになる。

 なぜならロシア軍の敗因として認識された諸点、すなわち、将校と兵との精神的結合の欠如や在郷

 軍人主力の予備師団の脆弱性、また国民の後援の欠如などは、多かれ少なかれ日本軍隊にもみられ

 た現象であったからである。

 「良兵を養ふは即ち良民を造る所以」であるという、田中の考案した「良兵即良民」主義は、こう

 した危機意識の反映であり、すぐさま日本陸軍の大原則として採用されることになった。それによ

 り軍隊内に家族主義と温情主義とが導入され、さらに国民教育と軍隊教育との連携・一致がはから

 れることになった。いわゆる「軍隊の国民化」「国民の軍隊化」であり、軍隊内務書や軍隊教育令

 の改正、また帝国在郷軍人会の創設や青年団の再編成など、さまざまな具体的施策で田中の強いリ

 ーダーシップが発揮された。 》

       [第三部 大戦間期に躍動した人々 第一章 田中義一]より

   併読していた

不必要だった二つの大戦:チャーチルとヒトラー』河内隆弥訳 パトリック・J・ブキャナン も 

全体が見通せるところまで進んだ

ヒトラーの、自衛の見地からのラインラント再占領を褒めたあと、ロイド・ジョージは一一ベルヒテスガーデ

 ンに招待された。会談のあと、この元首相は、「ヒトラーの驚嘆すべき個性と態度の呪術に縛られた」ような状

 態となった。「かれは立派な男だ」。これがロイド・ジョージの第一声だった。かれは『我が闘争』をマグナカル

 タにたとえ、ヒトラーこそ、ドイツの「復活と神の道への顕現者」と讃えた。

  イングランドに戻ってのニューズ=クロニクルとのインタビューで、かれは国民に保証した。「ドイツは、ヨ

 ーロッパのどの国も攻撃したいとは思っていない。(…)ヒトラーの軍備は自衛を目的としており、攻撃のため

 ではない」。ドイツが独裁的になってきていることをどう思うか問われて、老元首相は、「ヒトラーは国のために

 大変な仕事をした。疑いもなく偉大な指導者であり、(…)ダイナミックな個性の持ち主だ」と答えた。

  イギリスの政治家でヒトラーの虜になったのはロイド・ジョージだけではない。イーデンは一九三四年にヒト

 ラーに会い、妻に書き送った。「正直に言おうか? (…)ぼくはどちらかというとかれが好きだ」。イーデンの

 外務大臣の前任者、ジョン・サイモンは、ジョージ五世にヒトラーのことを「口髭を生やしたオーストリア人の

 ジャンヌ・ダルク」と形容した。

  一九三七年、長いナイフの夜事件でレームとその突撃隊員を殺害した三年後、ユダヤ人にニュルンベルク法

 課した二年後、ヒトラーのラインラント進駐の一年後、チャーチルは、『同時代の偉人たち』を出版した。その

 なかに、かれは一九三五年に書いた「ヒトラーとその選択」というエッセイを収録した。かれはヒトラーのプロ

 フィールを「行く道をさえぎるすべての権威、敵対勢力に対して挑戦、反発、懐柔、克服してゆける、その勇気、

 忍耐力、活力に対する讃嘆」の言葉で描いている。

 「ヒトラー氏とじかに会った者は」、とチャーチルは書く。「そこに、愛想良く振る舞う、邪気のない微笑を湛えた、

 高度に有能で、冷静、かつよく物事を心得たお役人を見出す。その繊細な人間的魅力に屈しないものはほとんど

 いないだろう」ヒトラーナチス党員は、「かれらの熱烈な愛国心、祖国愛」を確実に表現している。》

《 ラインラント侵入の一年後、ダッハウ強制収容所開設、ヴェルサイユ条約放擲、ヒトラーの命令とその個人的

 策略によるレームと突撃隊指導者たちの殺害、そして反ユダヤ人法施行の数年後、ヒトラーについては、この

 グレート・マン/チャーチルすらそう信じていたのである。ラインラント再占領について、伝記作家、ロイ・ジェンキンスは、

 チャーチルが奇妙に無関心だったことを発見している。

 

  三月七日、ヒトラーは非武装ラインラントに兵を進めた。ヴェルサイユと同じくロカルノ条約を無視した

 のである。最初のチャーチルの反応は沈黙だった。その日クレメンタインに打った電報では、何も決まって

 いない、とつたえただけだった(これは政府のことを言っている)。(…)火曜日(三月一〇日)にかれはや

 と話題に取り上げたが、不思議なことに、ためらいがち、控え目な言い方で、ラインラントという言葉は 

 出さなかった。(…)のちの著作、『迫りくる風』の記述にあるような、ラインラント問題について、強硬極

 まる態度を当時のチャーチルが採っていたわけではない。(…)自分自身と国家にとって取り返しのつかな

 い災厄が襲ってくる、とチャーチルが考えていた節はまったくなかった。》

           [第六章 一九三六一一一ラインラント]より     

さらに

穢土に咲く一輪の秋海棠 干天の慈雨ともいうべき

珠玉文集『文人荷風抄』高橋英夫

  愛おしみ慈しむように讀了

  一転して

カルスタと旧くてゆるいユースカルチャーの私生児

とでも形容したい

『思想の不良たち』上野俊哉 

五〇男の 若者(通・らしさ)ぶりに少し閉口しながら 割と愉しく読んだ

  (上野さんは自分で思っているほど智囊でも駿才でもない、、、

    「キミ これ知ってるぅ」

   若者にとって率爾軽忽な話しのわかるヲジサンの線を目指すのでしょう / 笑。)

  さて

ふたつの大戦にまつわる両著の感想は 殺伐憮然たるおもいある のみ

人間は 人類は 

  軍人も政治家も民草も 揃って大馬鹿である 

 

  愚昧蒙昧 痴愚痴呆 無恥狡猾な 欲に溺れる 暗愚無明

とりわけ 産業革命以降の人類は 呪われた存在

     自己呪縛していく大馬鹿野郎でしかない

国家とは「集合的な悪夢」

    「暗愚 魯鈍な集団癲狂」であるだろう

  ところで

  四〇年前の帽子とは 

黒く塗られたヘルメットのこと

  ぼくは 

四十五年前からの それを まだ持っている

          ★   ★   ★

   自らふたりを殺したことを認めているにも関わらず 富山地方検察庁による

    富山県警元警部補 加野猛 不起訴決定など すでにして

         露骨以上に法治国家の態をなしていない

          ファシスト国家への全面的な屈服

       国家主義者による司法と議会 国家制圧 警察国家への歴然たる布石

           このウルトラ・シリアス/超深刻な時代相は

                 すでに

          戦後でも 戦間期でもなく ファシズム革命前夜

    

               戦争前夜という意味での

             正確な日本語では「戦前」だろう

    戦闘員と戦費を負担し 重税にあえぐ 植民地・属領としての戦前 

                その始まり

      ぼくの見解では「薩長同盟」が 亜米利加に日本を売却した と。

          ふたたび始まる 今度は「視えない 永続的な占領」