W・ジェイムズ 『宗教的経験の諸相』を読んで 「古代ギリシア」の厭世主義にふたたび出逢う 。。。

その時 

ぼくはまだ十三歳だった 

識字もはやく 精神的に夙成だったから そんな気がするけど

十五歳になっていたかも知れない 毎号読んでいた岩波書店の『図書』に

著者も 内容も 文脈もまったく憶えていないが 

引用されていた文言の大意

「いちばん良いのは 生まれてこないこと 二番目に良いのは 早く死ぬこと」という

    淡々とした しかし虚無にみちた極彩色の言葉にふれて

それまでも「死生一如」「自他一如」と胸裡に嘯く 快活でペシミスティックな子どもは 

こころの底から 

それまでの 茫漠とした死生観に大革命を起こすほど衝撃を受けたのだ

それから 半世紀

W・ジェイムズの『宗教的経験の諸相』を嬋媛かつ真摯に読みつつ

その窈窕豪毅たる名著ぶりに 深く官能的な時空で ダイナミックに遊んでいる

    と

まずこんな文章に出逢った

 《 古代のギリシア人は、文芸作品の上で、自然宗教から生まれる健全な心の喜びの模範として、

  たえず私たちに示されている。確かに、ギリシア人の間には喜びが溢れていた——太陽の照らす

  ほとんどあらゆるものを讃えるホメロスの情熱のほとばしりは、変わることがない。しかし、そ

  のホメロスにおいてさえ、反省的な詩句は陰気である。そしてギリシア人は、体系的な思索にふ

  けって究極的なものに思いをはせると、その瞬間に、純然たる厭世家/ペシミストになったのである。》

     『宗教的経験の諸相 上』 《 第六・七講 病める魂 》より

 さらに 脚注として 

 そこには

 五〇年を経て 活き活きと蘇るあの「懐かしい原イマージュ / 意識の原郷」があった

 《(二)例えば、Theognis, 425-428.の「地上の万物にとって最善のことは、生まれもせず、太陽の光をも

  見ないことである。次善はできるだけ早く、冥府の門をくぐることである。」Oedipus in Colonus ,1225,

  に見えるほとんど同じ詩句をも参照されたい。——『ギリシア詞華集』は、厭世的な詩句にみちている。

  「わたしは裸で地上に来たし、裸で地下へ去ってゆく——わたしの行手には裸の終極が見えているのに、

  いったいなぜにあくせくと無益な骨を折ろうとするのか?」——「わたしはどうして存在するようにな

  ったのか? わたしは何処から来たのか? なぜわたしは来たのか? 過ぎ去るためにだ。わたしは何

  一つ知らないのに、どうして何かを学ぶことができよう? 無なるものであったのに、わたしは生まれ

  てきた。もう一度わたしは、わたしのそのありし姿にかえるであろう。すべて死すべきものの種族は、

  無であり、空である。」——「いたずらに屠殺される豚の群れのように、死ぬために、われわれはみな養

  われ肥やされるのだ。」

   ギリシアの厭世主義と東洋的厭世主義および近代的厭世主義との相違は、ギリシア人が、悲哀の気分

  が理想化され、感受性のより高い形式としてあらわれることができる、ということを発見しなかったと

  ころにある。彼らの精神はなおあまりにも本質的に男性的でありすぎたので、彼らの古典的文学のなか

  で、厭世主義を磨きあげたり、くわしく述べたりすることができなかったのである。彼らはまったく短

  調で表現された人生を軽蔑し、そういう人生なら涙壷のなかに納めておくことを要求したことであろう。

  この世界が続くかぎり、いつまでもこの世の苦痛と失敗が強調されつづけるという発見は、古典時代の  

  ギリシア人よりももっと複雑な、(いわば)もっと女性的な民族をまって初めておこなわれたのである。

  しかし、それにもかかわらず、この古代ギリシア人のものの見方は、深く厭世的であった。》

                               桝田啓三郎 訳

  ぼくはこのパラフィン紙で包まれた岩波文庫というコンパクトなタイムマシンを手に 

               至福の時間を過ごした

☆ 西川正身選訳 『A . ビアス 悪魔の辞典』は第一刷が一九六四年六月に出ている

  これは新刊の案内を『図書』で見て購入したから 十三歳説もあながち無茶ではないようだ

☆☆ ジュート麻製の袋を再利用したキャンバスに描かれた『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』

   ポール・ゴーギャンタヒチ時代を代表する巨大な作品 あるいは十九世紀の黄昏を象徴する傑作

  

   その題名はトマス・カーライルの『サアタア・リザアタス』(別名『衣装哲学』『衣服哲学』)の一節から採られているが

   カーライル自身が『ギリシア詞華集』の『わたしはどうして存在するようになったのか? 

   わたしは何処から来たのか? なぜわたしは来たのか?』に範を取ったと考えることはさほど不合理ではないだろう 。。。