『2666』 と 照屋佳信の按瓶 etc. 。

ロベルト・ボラーニョの『2666』を読み始めたのは

ちょうど照屋佳信さんの按瓶が届いた日だった

恩納村の奥に位置する登り窯で焼かれ 松江のobjects を介して はるばる到来したそれは

そのまま 日本民藝館の二階のガラスケースに入っても不思議ではない

なんともいえない 

古体な辺境性としか云いようのない 稀有な何かを 保っていた

古いアフガニスタンの大鉢 や チベットの銹びた寺院ゴング と

同じ 匂い と 気配

     ・    ・    ・

『2666』を読み始めて しばらくすると 

部族を超えた 聖なる辺境性

精神気圧の運動と超動物性が 通奏低音のように流れていることに 気がついた

ある部分 デイヴィッド・ロッジ の 上品なエロスとヒューモア

あるいは ガルシア=マルケス の 濃密な肉体性と神話的 親和力

ピンチョン の 嗜虐的で冷めた狂気

二〇世紀後半を代表する作家たち同様 

なかば崩壊しかかった意識の流路 と 語り口のうまさ 

   376頁まで 読んだ いま そう思っている 

    (頁数にまったく意味はない)

ところで 

この世を まだ ディズニーランドや ショッピングモール あるいは まるでシネコンなどと

勘違いしている ひとが多数いるが 

間違えては いけない この世こそが地獄 なのだ

われわれは いわば 地獄へ修学旅行に来ている のだ 

ロベルト・ボラーニョは その感覚を 忘れていない

地獄を生きるという聖なる意識 

あるいは煉獄に暮らす感覚

   辺境性とは その謂である 

意識のなかの 最辺境 / 霊性 こそ 

地獄から垣間みる 西方浄土たりうる だろう

 いい歳して

村上春樹なんか 読んでんじゃないぜ / 笑。

それにしても 三五歳で夭折した 芥川龍之介を記念した賞 

つまり新人賞を 七五歳の婆さんに 与えるなんて

末期的文芸商業主義世界とは いえ あざとすぎる 

日本の小説出版界なんて もう 恥も外聞もないのだろうなぁ / 笑。

ところで『2666』は 本と小説に 関する メタ小説でもあります

あるいは 藝術の狂気と 家族および世界性の崩壊 を 描こうとしている、、、。

☆ この小説に登場する人物たちのほとんどは「ひとり」である これは反家庭 脱あるいは超家族小説でもある 。。。

  あるいは「オタク」小説の傑作という言い方も可能だろう 。。。。

  オタクという言葉は 二人称が 三人称化を経て 一人称扱いされることに留意されたい

  「わたしは オタクである」

  自分がパートナーになり 対象は常に自分に回帰してしまう 

  したがっていつも「ひとりらしい」 であり

  自分の体温を疎んじながらの 循環する空疎さがつきまとう

  目の前には 誰もいない/常に不在である  タコツボ ならぬ タクツボ化 する社会

  意識領野における 孤独な塹壕戦 孤立無援のタクツボ ヒッキー

  ようやく 地獄の新天地 新境地が 見えてきたようだ / 笑。

  この世は 地獄のメリーゴー ラウンドだ 

     諸君 地獄を愉しもう  

  附記 「読み終えて」

先週の月曜に読み始め 日曜に読み終えた

前回は この850頁を超える長編のまだ半分以下

最も長い「4 犯罪の部」の 始まりに近い部分での 経過報告だったが

ボラーニョの内部に巣くう地獄性が これほど凄まじい とは思わなかった

つまり

クライムノベルの愛読者でも 変質者でもない ぼくには「犯罪の部」が 退屈に近いほど煩雑だった / 笑。

500頁くらいまでは チャンドラーを なんとか連想したり

思いっきり暗く 狂気度の増したジャック・ケルアック 

あるいは 変態になったアンブローズ・ビアス

かすかに浮かんだりしていた 

しかし 

読み進むにつれて ふと気づくのは ボラーニョの持つ ある種の 悪意である

絶望感を栄養にした 裸の悪意 

『2666』には 唐突さ と 不思議さ の中間くらいの位置で 

デュシャン作品への言及があるが

ぼくが感じている デュシャンの「 inframince / アンフラマンスな悪意」

あの酷薄そうな唇を持つ デュシャンが一生を通じて作品化した 人類への「極薄 超薄な悪意」

それを 

分厚く 量塊化し 言語化された悪意が『2666』には 詰まっている

この小説を 

うかつに読む 十六歳や十七歳 (もちろん それ以下であっても!)

感受性のつよい二〇歳 であっても こころに傷を受けるだろう

それは 悪意を制御 あるいは統御しない ボラーニョの「裸性」から 

うける傷だ

地獄性と 悪意性は ちがう 

    裸の悪意は 充血した性器より猥褻だ

ボラーニョからは ビアスが持っていた 何かが喪われている

それが「現代」性といえば それまでだ

ボラーニョは 現代の救いのなさを 描ききっている 

悪意と狂気を 

現代人の 骨にまで 及んでいる 腐敗を 

描くことに成功している

脈絡なく ぼくは

ミルチャ・エリアーデを 思いだす

エリアーデの小説も くらい

しかし 決定的に どこかが違う

エリアーデを ひとつの手袋に喩えると

   手袋を 裏返して 反対側の手に填めた 状態が

この小説だ

『2666』には ある意味 感心した

しかし 

ぼくは このあと ボラーニョを読まないだろう

さようなら ボラーニョ

さようなら デュシャン

★ デュシャン の容貌から ウィリアム・バロウズを 思いだした

  デュシャンバロウズは 顔がとてもよく似ている

   そして

  ロベルト・ボラーニョの精神の毀れ方は どこか バロウズの身勝手な狂気に 似ている 。。。

  簡単に云ってしまえば 

       バロウズも 悪意しかない男だった 

  そこが ギンズバーグや ケルアックとは 異なっている